角刈の職人体の若い男が二人居た。一人は紺絣の着物をき、一人は浴衣をきていた。紺絣の男が浴衣の男の耳に囁いた。私は彼等の後に押しつけられていたのでその声が聞き取れた、「おい手がついたぞ」浴衣の男は紺絣の方を見返した。二人は何やら眼で相図をした。すると彼等は急に人込みを押し分けて逃げ初めた。その時私は、一人の浴衣の背中に銅貨大の赤い印《しるし》がついているのを認めた。二人が逃げ出すと、一人の書生体を装った男がその後を追い初めた。その三人のために、そして恐らくまた他の者のために、群集はかき乱され初めた。非常な混乱を来した。それに乗じて巡査と兵士とが正面から圧迫して来た。群集は一瞬のうちに四散してしまった。
 私は電車通りを広小路の方へ歩いて行った。通りは次第に薄暗くなった。線路の真中を提灯をつけて走って行く男があった。並木の影や横町の角に、黙々として佇んでる群があった。それらの人々の顔も、須田町のより、また万世橋のたもとのより、次第に荒っぽく且つ沈鬱になっていた。腹掛をしてる者や尻を端折ってる者などが多くなっていた。
「わーッ」と声が上った。見ると向うから騎馬の兵士が駆けて来た。然し彼はそのまま万世橋の方へ駆け去ってしまった。あたりは再び静になった。
 何か人々がどよめく気配がしたので顧みると、三人の男が争っていた。横町の角の所に電柱が一本立っていた。横町には群集が一杯だった。三人の男はその先頭に立っていた。一人は電柱にしがみついていた。黒い着物を着、帽子も被らず、跣足《はだし》のままだった。それを、鳥打帽に駒下駄の二人の男が、しきりに電柱から引離そうとしていた。一人は眼鏡をかけていた。「痛い。」と電柱にしがみついている男は叫んだ。それから必死となってなお電柱に取つきながら泣き声を立てた。「御免なさい、悪い気でしたんじゃない。……おう痛い。ひどいことを! 御免なさい。」私はその男を何ということもなく、牛乳配達夫だと思った。
 そういう風に泣き声に叫んでいる「牛乳配達夫」を、二人の鳥打帽の男は鷲掴みにしていた。「ともかく其処まで来い。」と彼等は鋭い声で云った。そして駒下駄で一つ男の向う脛を蹴りつけた。「痛い!」と男はまた叫んだ。一人は彼の左肩を捉え、一人は彼の右腕を無理にねじ上げた。彼は額に油汗を流してなお抵抗した。然しやがて二人の力で電柱からもぎ離されてしまった。ねじ上げ
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