って、岩の片面に牡蠣みたいな貝類が曝し出されている。
「君、」と彼は突然私の方を見返った、「牡蠣が沢山あるよ。この牡蠣という奴は、取立ての海水で洗って食べるのが一番うまいんだ。食ってみようじゃないか。」
 そこで私達は、手頃な石を拾って、岩に密着してる貝殼を叩き破って、中のぶよぶよした肉を取出し初めた。所が、色といい格好といい、どうも本当の牡蠣であるかどうか疑わしい。それでも彼は二つ三つ海水で洗ってすすり込んだ。私はうまくとれなかったので、一つ二つ口に含んだがすぐに吐き出してしまった。
 それから暫くして、教官室の方に帰っていく途中、彼はふいに顔を渋めて唾をぺっぺっと吐き出した。
「どうもさっきのは、牡蠣ではなかったかも知れないよ。胸が悪くなってきた。」
 私は黙って彼のひょろ長い姿を眺めた。そして彼が食ったのが果して本当の牡蠣だったかどうか、いくら考えても分らなかった。
      *
 或る日私が出先から家に帰って来ると、百間こと内田栄造君が先程訪ねてきて、三十分ばかりしたら帰る筈だと云ったら、じゃあまたその頃来ると云いおいていったとの、家人の話だった。そして私が洋服を着物に着換えてしまってる頃、のっそりした気配で彼がやって来た。
 書斎に通ると、彼はこんなことを話し出した。
「君が帰るのを待つ三十分の隙つぶしに、自動電話に飛び込んで、さんざん交換手と喧嘩して来た。五銭銀貨一つで、あとは何度も何度も番号がちがってると云って、でたらめのことを云っていたら、しまいに交換手の方で怒りだして、少し口喧嘩をした後は、もういくら呼んでも出て来ない。面白い三十分を過したよ。」
 それから彼は二十分ばかり雑談をして、またのっそりと帰っていってしまった。用なんか何もなかったらしい。
      *
 或る晩十時半頃、明るい街路を散歩してると、伊福部隆輝君にひょっこり出逢った。彼とそっくりの顔付をした、まるまる肥ってる重い子供を、辛うじて両腕に抱きかかえている。「やあ。」と出逢頭の挨拶を交わしてると、後から彼の細君がつつましく丁寧に頭を下げてるのが、初めて私の眼についた。
「どうしたんだ、今頃……。」
「いや……そこの寄席に小勝が出てるもんだから、一寸聞きにいったんです。」
「ふーむ、」と云ったきり私は彼等三人の姿を眺めた。そして、そこらでお茶でも飲もうかということさえ忘れて、そのまま別れてしまった。
 如何にも月の美しい晩だった。
      *
 或る時或る所で、岸田国士君と落合った。大勢の中だったが、彼はつかつかと私の前にやって来て、こんなことを云った。
「弱った、明後日までに脚本を一つ書かなくちゃならなくなって……。こんなのどうだろう。晩春……咽せ返るような晩春の庭、そして手入れも何もしてない廃園という感じ……廃園の晩春というのが必要なんだ。その真中に古い深い池がある。その池の中に……。」
 彼は戯曲の筋を簡単に話しだしたが、その筋なんかよりも、彼の眼の方が強く私の胸に迫ってくる。近眼鏡の下から、大きな眼玉が飛び出して、ぎらぎら光っている。晩春の庭の中の古池の主とも云える蛙の眼玉、それよりももっと力強く神秘的にぎらぎら光っている。
 戯曲の筋を話し終って、「どうだろう。」と彼は尋ねかけてきた。が、素人の私に意見のありようはない。否何一つよくは分らなかった。ただ彼の眼玉を茫然と見つめたまま、自分のうちにも或る力強い創作欲が動いてくるのを感じた。そして口を噤んだまま、心の中で呟いた。
「どうだっていいさ。君の眼玉がぎらぎら光ってる以上は……。」
      *
 或る晩、十一谷義三郎君と碁を打ち始めた。三番という約束だったが、三番とも私が負けた。そんな筈はないので、も一番やろうと私は挑んだ。
「いや、もう止した。変に疲れちゃって……。」
 彼は顔の筋肉一つ動かさないで、彫像のようになって、煙草を吹かしている。
「も一番やろう。勝ち逃げは卑怯だ。」
「いやもう止した。」
 少し猫背加減に坐ったまま、びくともしない。
「も一番やろうよ、さあ。」
「いやもう止した。」
 私は彼に挑んでゆくのが面白くなって、何度も勧めてみた。然し彼は「いやもう止した。」を永遠に繰り返すつもりらしく、愉快不愉快を超越した没表情な顔付で、猫背加減に火鉢へ屈み込んでいる。しまいには私の方で精根がつきて、笑い出してしまった。
      *
 或る日の夕方、山本有三君が威勢よくやって来た。何処かで飯でも食おうというのだ。ところが私は、もう飯を半ば食いかけていたし、〆切間際の原稿に追われていたし、出かけるのが億劫だったので、とうとう私の家に坐り込むことになった。そして、この美食家にたまにはまずい物を食わしてやれという気になって、夕食代りの註文をきくと、釜揚饂飩ならという返
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