まま別れてしまった。
 如何にも月の美しい晩だった。
      *
 或る時或る所で、岸田国士君と落合った。大勢の中だったが、彼はつかつかと私の前にやって来て、こんなことを云った。
「弱った、明後日までに脚本を一つ書かなくちゃならなくなって……。こんなのどうだろう。晩春……咽せ返るような晩春の庭、そして手入れも何もしてない廃園という感じ……廃園の晩春というのが必要なんだ。その真中に古い深い池がある。その池の中に……。」
 彼は戯曲の筋を簡単に話しだしたが、その筋なんかよりも、彼の眼の方が強く私の胸に迫ってくる。近眼鏡の下から、大きな眼玉が飛び出して、ぎらぎら光っている。晩春の庭の中の古池の主とも云える蛙の眼玉、それよりももっと力強く神秘的にぎらぎら光っている。
 戯曲の筋を話し終って、「どうだろう。」と彼は尋ねかけてきた。が、素人の私に意見のありようはない。否何一つよくは分らなかった。ただ彼の眼玉を茫然と見つめたまま、自分のうちにも或る力強い創作欲が動いてくるのを感じた。そして口を噤んだまま、心の中で呟いた。
「どうだっていいさ。君の眼玉がぎらぎら光ってる以上は……。」
      *
 或る晩、十一谷義三郎君と碁を打ち始めた。三番という約束だったが、三番とも私が負けた。そんな筈はないので、も一番やろうと私は挑んだ。
「いや、もう止した。変に疲れちゃって……。」
 彼は顔の筋肉一つ動かさないで、彫像のようになって、煙草を吹かしている。
「も一番やろう。勝ち逃げは卑怯だ。」
「いやもう止した。」
 少し猫背加減に坐ったまま、びくともしない。
「も一番やろうよ、さあ。」
「いやもう止した。」
 私は彼に挑んでゆくのが面白くなって、何度も勧めてみた。然し彼は「いやもう止した。」を永遠に繰り返すつもりらしく、愉快不愉快を超越した没表情な顔付で、猫背加減に火鉢へ屈み込んでいる。しまいには私の方で精根がつきて、笑い出してしまった。
      *
 或る日の夕方、山本有三君が威勢よくやって来た。何処かで飯でも食おうというのだ。ところが私は、もう飯を半ば食いかけていたし、〆切間際の原稿に追われていたし、出かけるのが億劫だったので、とうとう私の家に坐り込むことになった。そして、この美食家にたまにはまずい物を食わしてやれという気になって、夕食代りの註文をきくと、釜揚饂飩ならという返
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