豊島与志雄

 五月末の或る晴れやかな日の午後四時頃、私は旧友N君と一緒に、帝国大学の中の大きな池の南側にある、小高いテラースの上の、藤棚の下の石のベンチに腰掛けていた。池の周囲には新緑の茂みが、むせ返るような明るい色に盛上っていたが、低い水の面は薄すらと黒ずんで、ひょろ長い四五本の松をのせた小島が、夢のように浮んでいた。N君は吸いかけの煙草をふいに投げ捨てて、変に憂鬱な表情をしながら、次のようなことを話しだした。――

 この池を見るのは随分久しぶりだな。……こうしてじっと池の面を眺めていると、僕は変に憂鬱なお伽噺の世界に引き入れられるような気がするよ。
 え、憂鬱なお伽噺なんか僕にも似合わないって……。まあ聞き給え。僕は今まで誰にも話したことはないんだが、思い切って君にだけ、その憂鬱なお伽噺というのを聞かしてあげよう。
 学生時代のことなんだ。僕は或る気まぐれから、この池の中の鯉を一匹捕えてやろうと思い立った。何故にそして何のために捕えるのか、そんなことは僕自身にだって分らない。ただ一時の気まぐれに過ぎなかったんだね。
 そこで僕は或る晩、用意しておいた道具をマントの下に忍ばして、この池の縁までやって来た。道具というのは、大きな釣針を畳糸でステッキの先に結びつけたもの、蚯蚓数匹、大きな竹の筒、風呂敷一枚、それだけなんだ。僕の考えでは、鯉を一匹釣り上げたら、それを竹の筒の中に入れて動かないようにし、上から風呂敷に包んで、門衛の眼をくらましながら、うまく持ち出すつもりだった。
 丁度今頃のことだ。新緑の香の籠ってる夜気を吸いながら、僕はあの大木の下の岩の上に腰を下して、黒々とした池の中に釣糸を垂れたものなんだ。
 一時間ばかりは何の手答えもなかった。僕はもう駄目かと思って、夜中禁制の釣をしてることが、変にばかばかしくなってきて、取止めもない空想に耽りだした。所が、ふいに……素敵だったよ、ばかに強くぐいと糸を引っ張るものがあるじゃないか。はっと思って、腰を浮かしざまに、力一杯引上げてやった……そいつが、夜目にはっきりとは分らないが、二尺ほどもあろうという大鯉で、水際を離れようという瀬戸際に、尾鰭で一跳ねやったために、僕は思わずよろよろとして、滑りかけた片足を宙に浮かしたまま、ステッキの釣竿を投り出し、両手で岩角につかまって、池に落っこちることだけは免れた。
 漸く
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