「慴えてか」は底本では「摺えてか」]馬が駈け出した……までは覚えていたが、彼が荷馬車から飛び降りて、馬の轡を押え止めた時には、平吉は俯向にぶっ倒れて、足をぴくりぴくりやっていた。肋骨から頭半分へかけて、車輪の下に押し潰されていた。
二
のっぽの三公は、二週間ばかり警察に留め置かれた。
平吉を轢き殺したことについて、彼はただ、俺が悪かった、許してくれ……と打歎くばかりで、そういう場合に誰でもがする通り、向うが悪いんだと昂然と云い張ることをしなかった。それがいけなかった。夕暮に提灯もつけないでいたことについて、彼はただ、もっと早く灯をつけていたらなあ……と云うきりだった。それもいけなかった。荷馬車に乗っかっていたことについて、彼はただ、俺が馬を引張って歩いていたらなあ……と云うきりだった。それもいけなかった。前後の事情について、彼はただ、羊羮のことを考えていたんで何にも分らない……と云うきりだった。それもいけなかった。酒を飲んでいたかと聞かれて、彼はただ、飲んでいたが酔ってはいなかった……と答えるきりだった。それもいけなかった。そして更にいけないことには、彼は平兵衛からだいぶ借りがあって、前々日酒のことで平兵衛と口論をした、ということが分った。結局腹が満足するだけ酒を飲まして貰って、仲よく分れたということは、余り足しにはならなかった。それから最も不幸なことには、そして不思議なことには、あの時平吉が黐竿を持っていたということを、誰も注意しなかったし、誰も気に止めなかった。最後に最も不運なことには、ぎょろりとした眼、荒い眉、狭い額、太い口、厚い唇、偉大な体躯、何かしら獰猛らしい感じのする肉体を、彼は生れつき所有していた。
警察の方では、何かしら犯罪の片鱗というようなものを、彼から嗅ぎ出そうとしていた。そして事件は、片田舎特有の緩慢さで調べられていった。遠くの大きな町から、少しの微笑も見せない厳めしい顔付の役人が、書記を連れてやって来たりした。
そして二週間ばかりして、漸く彼は一応放免された。その間に、病中だった彼の老母は死んでいた。
三
警察署から戻って来て、のっぽの三公は暫くぼんやりしていたが、やがてまた荷馬車屋の仕事をやらなければならなかった。女房と子供とを抱えていて貧乏で酒飲みな彼は、遊んでいるわけにはゆかなかった。そして材木
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