のうちに物の輪廓が包まれた。そして月が仄白く空に懸った。
 燈火《あかり》をつけてから、彼女の心は不安を感じてきた。不安はそのまま緊張して神秘な形を取った。彼女はじっと耳を澄して隠れたる物の囁きを聞き取ろうとした。舟の中の二人の運命が夢のような静けさを取って彼女の心に写った。其処から怪しい蠱惑《まどわし》の不安が手を伸した。彼女はまた外に出てみた。それは日暮頃から四度目であった。彼女はまだ一度も舟の姿を認めなかったので。
 空にはもう太陽の光りが全く消えてしまっていた。そして月が明るく輝いて、物の象《かたち》の上に青白い匂いを置いた。湖水の上には夕靄が薄すらと靉いて、水の面《おもて》が水銀のように光っていた。彼女はじっと月明りに透《すか》し見た。
 舟が夢の国のように水面に浮いて見えた。彼女は我知らず息を潜めて其処に立ち竦《すく》んだ。
 二人は向い合って褞袍を被《はお》り乍ら舟の中に坐っている。男は両手を緊と握り合せて胸の処に組んだまま首を垂れている。女は両手を重ねてそっと胸を押えたまま同じく首を垂れている。――祈っているのだ! そのまま石になりそうに思われるほど彼等はじっとしている。凡てのものが息を潜めている。時が音を立てないで静に過ぎ去る。……やがて女はそっとハンカチを自分の顔に当てた。それからまた男の眼と頬から涙を拭ってじっとその顔を覗《のぞ》いた。その時男は組み合せた両手を解いて柔く女の頸を抱いた……男は立ち上って櫂を手にした。女は空を恍惚《うっとり》と見上げている――
 彼女は急いで家の中に入った。呼吸が喘いでいる。見てならぬものを見たという悔いよりも、神聖なるものを涜したというような恐れが胸に湧いた。お社《やしろ》の御龕をそっと覗いたような心地がした。其処に深い処から何かがちらと光った。じっとしていられないような気がした。
 彼女は囲炉裡に火を焚いた。それから火鉢に湯を沸した。どうかしなくてはならないとわけもなく思った。
 渚に舟の音がした時彼女は急いで其処へ立ち出でた。
「遅くなってすみません。」と男が云った。
「お帰りなさい。」と何気なく彼女は云った。
 二人を家の中へ導いて後、彼女は舟から一切のものを運んだ。そして舟を其処に繋いだ。
 彼女は暫く外に立っていた。何か大きいものが彼女の上に被《かぶ》さった。そしてわけもなく騒ぐ心が強く二人の方へ引き寄せられた。で何をともなく神を念じながら急いで家へ入った。
 二人は囲炉裡の側に腰を掛けていた。それに茶をくんで出し乍ら彼女はこう云った。「お腹《なか》がおすきでしょうねえ。」
「いいえ。」と女が答えた。「舟の中で沢山|種々《いろん》なものを食《いただ》きましたから。」
 彼女も其処へ腰を下した。二人を見ると、そのじっと一つ所に定めた眼付から、口元の筋肉の緊りから自分自分の心に思いを潜めていることを示していた。そして沈黙は彼女の心に興奮の刺戟を強くした。
「よくお帰りになりました。」と彼女は云った。
「え?」男が顔を上げて彼女を見た。その眼付にうち沈んだ影を湛えていたので彼女はこう云った。
「いえ、あまり遅いので一寸案じていた所でした。」然しその言葉の底に不満が残った。
「実は何時までも湖水の上に居たかったのですけれど……。」
「私は……私は、」と彼女はくり返した。「ほんとに気付かっていました。いつかの雨の降っていた日にも、それから……。」と云って一寸口を噤んだ。何だか嘘を云っているような気がした。でもこうつけ加えた。「それでもやっと安心致しました。」
「決して自殺なんか致しませんよ。」と男が云った。
 その言葉は彼女の思いに恐ろしい形を与えた。「いえいえ、」と首を振った。「そんなことを仰言るものではありません。」
「然し死ということを考えてみたことはありました。」
「もうもうそんなこと仰言ってはいけません。」強い意志が青年の顔に閃いたので、彼女の心に罪深い恐れが満ちた。で祈るような句調で、「神様はお許しになりません。自殺は恐ろしい罪悪です。」
「いいえ、」と青年は言葉を続けた。「私に死を禁じたのは神ではありませんでした。それは……。」と云って彼は首垂《うなだ》れている女をじっと見た。「それは私達の愛でした。神様の目に罪と見える私達の愛でした。更に祈祷《いのり》を捧げているうちに、何時のまにか死が逃げてしまったのです。私は死を否定して愛を――凡てを肯定する愛を受け容れました。そして……私は度々お祈りを致します。」
 彼女の心にその時深い処から法悦の光りがちらとさした。凡てが許されて救われるであろう。自然と心が大きい何物かに融けていった。
「私は、」と彼女は云った。「あなた方が湖水の上でお祈りなさるのを見受けました。あなた方は手を組んで祈っていられました。そして涙を流
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