ねた》んでいるのではない」と驚いて彼女は自ら強く肯定した。でもやはり青年をいつかの午後のように悩まして置きたかった。「神様が見ていられます。」と彼に云いたかった。そして青年の姿を思い浮べた。……その時暗い処へ引き入れられるような恐怖を彼女は感じた。でホッと溜息をしてまた明るみへ出た。そして聖書をとり上げてみた。暫くは頁をくっていたが、心のうちにぴったりと響を合せるものがなかった。
 午後の明るみが家の中を一杯に満していた。そして却って物の輪廓を朧ろ気にしている。囲炉裡の炭火にはもう白い灰が蔽っている。彼女の心には大きい不安と緊張とが波うった。何かしら重大な運命が自分を待ち受けているように思えた。それは只青年を待っている故ばかりではなかった。それでは?――「神様に奇蹟を求めてはいけない!」と彼女は心の中できっぱりと云った。
 青年が来たのは三時頃であったろう。
「ほんとうにお待たせしてすみません。」
「いいえ。」と云って彼女は笑顔を作ってみせた。然しその微笑は自然に痙攣していた。
 青年の後ろに若い婦人が一人立っていた。
「よく御出になりました。」と彼女は云った。
 女は只丁寧に頭を下げた。長い眉毛の下の小さい眼を驚いたように見張っている。そのぱっちりとした小さい眼と高からぬ鼻立《はなだち》とは、小さい宝を強く懐いている心を思わせた。黒い房々した髪を無雑作に束ねていた。
「一寸の間《ま》、向うで暖っていて下さいよ。」と口早に彼女は二人に云った。
 彼女は何となく落ち付かなかった。自然と心が急《せ》かれた。で用意していた菓子や果物や、それから鮨《すし》などを舟に運んだ。火鉢をしかと横木に結えて、それに一杯火を盛った。お茶の道具と炭と褞袍とを片方に置いた。それらのことを彼女は息をはずませ乍ら急いでやった。そして「宜しいですよ。」と云った。
 二人はじっと顔を見合った。そして囲炉裡の側から立ち上って、渚に下った。
 彼女は何とか云おうとして、その言葉が忘られた。何処にか心の中に平衡を失くした処があった。
 女は黙って先に舟へ入った。
 男は舟の側に立ったまま突然彼女の方に顔を向けた。頬の筋肉が堅く引き緊っている。
「丁度月がありますから、もしかすると帰りは少し遅くなるかも知れません。御心配なさらないように。」
 彼女は何と答えていいか分らなかった。そして眼を女の方へ注ぐと、女はその時ふり返ってじっと彼女を見た。晴々とした顔に無邪気な眼が光っていた。で彼女はこう答えた。
「ええ御|悠《ゆっく》りと。……でもあまり遅くなりますと心配ですから。」
 男は一寸躊躇していたが、そのまま舟へ入った。
 彼女は緊《しか》と舟の艫《とも》を掴んだ。何か心に残るものがあった。でもそのまま力を込めて舟を押した。舟はスーッと渚を離れた。急に重い荷を下したような安堵が彼女の心に感ぜられた。
 舟が静に水の上を滑った時、女は舟縁《ふなべり》から白い手を出して冷たい水の面を指先で掻いている、そして男の方へ向ってそっと微笑んだ。
 水棹を捨てて櫂を取った青年の手元は覚束ないものであった。舟がくるりと廻った。それでもどうやら少しずつ漕いでゆくらしい。
 彼女はそのまま渚に屈《かが》んだ。大きい安静が彼女を包んだ。かの二人は嬉しさと悲しみとに満ちた心で結ばれている間であることも彼女はよく知っていた。二人を水の上に浮べて、今|日向《ひなた》の磯の上に解放された自分の心を見出す時、彼女は自分が凡ての自然の、山の、森の、また水の、さては二人の湖上の愛の母であるように思えて来る。先刻《さっき》の周章《あわて》た自分の心が不思議に思えた。一つの静安なる生命が、限りない喜びを与える。
 晩秋の太陽の光りは弱々しく、森の上に野の上に煙った。湖水の面がきらきらとその光りを刻んでいる。舟は夢のように浮んでいた。青年は櫂をすてて女と並んで坐った。彼等は小さい板片を手にしている。そして各《おのおの》舷側から水の中にそれを浸して、時々は当度もなく舟を動かしているらしい。
 彼女は無心に小石を一つ拾って水中に投じてみた。その小さい音が青空の下に消えてゆく時、彼女の静かな悦びがゆらゆらと揺いだ。凡てのものの母であるというような広い心は、また只在ることの静かなる悦びは、渚に戯るる小さい漣の音にも融けてゆく。生きることから解放されたような安易と、彼方の空から来る愁とのうちに、彼女は神を想った。
 やがて彼女は立ち上って家の方へ歩いた。頭が自然に力なく垂れた。その時彼女は旧友のなつかしい名を誰彼と思い浮べていた。そして家に入るとその一人に久々の音信を送ろうとて筆を執った。

 山に囲まれた盆地は暮るるに早かった。山懐の森の中から夜がひそやかに忍び出た。湖水に映った空の光りが薄れて、只一面に茫然たる灰色
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