「絵葉書はありませんか。」
その時彼女は明かに青年の顔を見た。窶れた顔は淋しい輪郭をしていた。逼った額は一層彼の顔を淋しく見せた。堅く結んだ口元とうっとりとした悲しみの眼とは、一つ思いに満ちた心を示していた。で労《いた》わるような調子でこう答えた。
「みんな湖水のばかりなのですよ。」
青年はその一枚を取りあげて暫くじっと見ていた。それはふっくらとした湖水の面を単調に写し出したものであった。それから彼は五六枚を選んで、そのまま黙って湯の宿の方へ帰って行った。
何だか淋しい影を引いている人だと彼女は思った。
曇り勝ちで佗《わ》びしい一週間が過ぎた。
前日よりしとしとと降り続いた雨は午後になっても止まなかった。雨を含んで重たい雲の脚が山々の頂を匐ってゆく。そして榛の林に、湖水の上に、冷たい小さい雨の粒が忍び歎く音を立てている。その顫音が集って、仄暗い家の中の空気に頼り無い寂寥を満す時、彼女はむやみと火鉢の炭を足して、軽く頬が熱《ほて》るまでに火を熾《おこ》した。障子の腰にはまった四角い板硝子を透して見ると、外にはしっとりした靄が細い雨に縫われて低く垂れている。その靄の圧力を受けて湖水の面は一杯に張り切っている。落ち来る雨の粒はその緊張にはね返されて、幾つかに砕けて光る小さい露の玉の形を暫くは水面に保った。
その時表にふと人影を見出したので彼女は立ち上って障子を開けて見た。それは先日《いつか》の青年であった。
「ちと息《やす》んでいらっしゃい。」と彼女は云った。
彼女は青年を家の中に導いて、囲炉裡に火を焚いた。彼の姿は雨の中にいたいたしいように彼女の眼に映った。
二人は狭い土間の囲炉裡の側に腰を掛けた。あたりはごたごたと散らかっていた。菓子箱や絵葉書の箱などが椽端から取り片付けて、其処らにつんであるのを青年は珍らしそうに見廻した。
「もう此の頃はお客も少いのでしょうね。」
「ええすっかり寒くなりましたものですから。それに今日のような雨の日は特《こと》にね……。」と云って彼女はかすかに微笑《ほほえ》んだ。
「でも今日は大変いい景色でした。それで湖水の岸に長い間立っていたのはよかったのですが、急に寒くなって実際弱ってしまいました。」こう云って彼はひどく真面目《まじめ》な顔をしている。
雨がしきりなしにまだ降っていた。囲炉裡に燃ゆる火が昼間の光と湿った空気と
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