女はその時ふり返ってじっと彼女を見た。晴々とした顔に無邪気な眼が光っていた。で彼女はこう答えた。
「ええ御|悠《ゆっく》りと。……でもあまり遅くなりますと心配ですから。」
 男は一寸躊躇していたが、そのまま舟へ入った。
 彼女は緊《しか》と舟の艫《とも》を掴んだ。何か心に残るものがあった。でもそのまま力を込めて舟を押した。舟はスーッと渚を離れた。急に重い荷を下したような安堵が彼女の心に感ぜられた。
 舟が静に水の上を滑った時、女は舟縁《ふなべり》から白い手を出して冷たい水の面を指先で掻いている、そして男の方へ向ってそっと微笑んだ。
 水棹を捨てて櫂を取った青年の手元は覚束ないものであった。舟がくるりと廻った。それでもどうやら少しずつ漕いでゆくらしい。
 彼女はそのまま渚に屈《かが》んだ。大きい安静が彼女を包んだ。かの二人は嬉しさと悲しみとに満ちた心で結ばれている間であることも彼女はよく知っていた。二人を水の上に浮べて、今|日向《ひなた》の磯の上に解放された自分の心を見出す時、彼女は自分が凡ての自然の、山の、森の、また水の、さては二人の湖上の愛の母であるように思えて来る。先刻《さっき》の周章《あわて》た自分の心が不思議に思えた。一つの静安なる生命が、限りない喜びを与える。
 晩秋の太陽の光りは弱々しく、森の上に野の上に煙った。湖水の面がきらきらとその光りを刻んでいる。舟は夢のように浮んでいた。青年は櫂をすてて女と並んで坐った。彼等は小さい板片を手にしている。そして各《おのおの》舷側から水の中にそれを浸して、時々は当度もなく舟を動かしているらしい。
 彼女は無心に小石を一つ拾って水中に投じてみた。その小さい音が青空の下に消えてゆく時、彼女の静かな悦びがゆらゆらと揺いだ。凡てのものの母であるというような広い心は、また只在ることの静かなる悦びは、渚に戯るる小さい漣の音にも融けてゆく。生きることから解放されたような安易と、彼方の空から来る愁とのうちに、彼女は神を想った。
 やがて彼女は立ち上って家の方へ歩いた。頭が自然に力なく垂れた。その時彼女は旧友のなつかしい名を誰彼と思い浮べていた。そして家に入るとその一人に久々の音信を送ろうとて筆を執った。

 山に囲まれた盆地は暮るるに早かった。山懐の森の中から夜がひそやかに忍び出た。湖水に映った空の光りが薄れて、只一面に茫然たる灰色
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