続いた後、僕はふと、自分の精神の中に異様なものが澱んでいるのを見出した。大空に見入ってる時、大海を見渡してる時、心の中に澱むような何かだ。空虚だとも云えるし、苦悩だとも云えるし、翹望だとも云える。死[#「死」に傍点]のようなものだ。そいつを見出した時、僕は駭然とした。日の光は遠退いて、僕は薄闇の中に佇んでいた。然しそうした場合、人は同じ所に長く立留ることが出来るものではない。僕はまた歩きだした。もう浮々した軽やかな足取りではなかった。
「その頃だ、僕があの女に出逢ったのは。彼女も何かしら異常な場合にあったらしい。そして二人の間には、退引ならないものが生じてきた。それは或は僕の幻影だったかも知れない。僕達は互に藁屑を掴んだのかも知れない。然し幻影でも藁屑でも構わないではないか。そうだと分った時には、即座に投げ捨てるだけのことだ。だがそれまでは、幻影でも藁屑でもない。僕は自分の信念に誠意を持つのだ……。」
 右は、或る男が私に語ったことである。私は彼の不敵な誠意を信ずるから、賛意を表しておいた。「悪霊」のスタヴローギンでさえ、ダーリアを――他の男との婚談を拒絶しなかった彼女、而も彼の最後の精神的看護婦と自認した彼女を――やはり最後に呼び寄せようとしたのである。ただ、彼にとってその女が自分の娘でなく或は妹でなかったこと、または「ソーニャ」であったことは、彼の幸か不幸か私の知る所でない。
 精神的な第二の故郷を求める旅に出ることが、真摯な人には往々ある。その旅は苦難の道だ。砂漠を一人で旅するに等しい。その時、人を救うものは、日出の壮厳さや蒼空の深みや星の光などよりも寧ろ、オアシスの一掬の清水であろう。砂漠のオアシスは蜃気楼であることもある。それだからといって、蜃気楼[#「蜃気楼」は底本では「蜃気棲」]を恐るるのは今更に卑怯であろう。
 コスモポリタンの傲慢と矜持も、私は知らないではない。精神的故郷を否定する境地も、私は知らないではない。然しながら、そういうものは、誰をも――ひいては文学をも――救うものではない。虚無の中に飛びこむのはよろしい。だが飛びこんだだけでどうなるものでもない。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
青空文庫作
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