ろが、へんなことが私たち二人の間に起ったのである。

 自分でもはっきり気付かぬまに、私は会社をなまけることが多くなった。澄江の方でも、宵のうちの忙しい時でさえ、店を休むことがあった。そして二人一緒にいさえすれば、それでもう私たちは満足だった。
 私は自分の室に、まだそれほど寒くもないのに、炬燵をおこした。彼女と二人、食卓をはさんで坐っているより、炬燵にでももぐり込んでる方が、やはり気楽だ。そしてウイスキー一瓶に、チーズと塩豆、にぎり鮨、それぐらいなもので充分だ。
 横坐りに炬燵に顔を伏せて、私は思う。埋め火のほかほかした温かみ、布団のしなやかな柔かみ、それが如何に人の心を和らげることか。私にとって、澄江は丁度そのようなものだ。
 然し、澄江は全く別なことを考えていたらしい。
「わたし、くにへ帰ろうかと思うんだけれど……。」
 だしぬけに言う。
 彼女の郷里は秋田の田舎で、父や兄が農業をやってるのである。
「おかしいねえ。どうして、そんなことを思いついたの。」
 返事をせずに、彼女は考えこんでいる。
「お墓参りだろう。そんなことは、若い者がしなくたって、年寄りにさせておくんだね。」
「いいえ、帰りっきりに帰ってしまおうかと思って……。」
 意外、というよりもむしろ、私は呆気にとられた。
「わたしたち、このままでは、いけないんでしょう。」
 そのことなら、私も考えていた。いずれは、結婚しようかとも思っていた。家庭生活についての怖れも、澄江相手ならば少しもなかった。私は彼女によって初めて、羞恥心などを超越した愛慾を知ったのである。私も彼女も情慾については、他人と比較するわけにはいかない、弱い方らしいけれど、弱いなりに何のためらいもなく自然に、二つの肉体は合致して、倦きるということがなかった。これが愛情というものなのであろうか。
「心配しなくてもいいよ。……結婚しようか。結婚してしまえば、何もかもよくなる。そのこと、僕も考えていたよ。」
「結婚……だめよ。わたし、このままでいいわ。このままでいいけれど……。」
 彼女は加津美のお上さんには不義理をするし、叔母さんの方へも工合のわるいことが出来るし、私だって会社に借金をこさえるし、うまくいかないことが分ってると、彼女はぽつりぽつり言うのである。
「だから、結婚しようよ。どうして結婚はだめなの。」
「だって、結婚して、こんど、離婚するのは、いやですもの。」
「結婚して必ず離婚するとは、きまってやしないよ。」
「でも、離婚するようなことになったら、あんまり惨めだもの。いや、わたしあなたと別れるの、いやよ。」
 なにかしら、めちゃくちゃなのである。もっとも、彼女が一度結婚したことを私は知っている。彼女は東京へ出て来て、叔母さんのところから女学校に通い、それから、若くて結婚したが、まだ先方へ入籍もすまさないうちに、夫は召集されて戦死してしまった。彼女は叔母さんの家に戻り、ちょっとした恋愛火遊びめいたこともあったらしいが、それも立ち消え、彼女は加津美の女中になってしまった。過去の痛手がまだ心に残ってるのであろうか。私がそのことにふれると、彼女は私を睥みつけるようにして言った。
「わたしはこれまで、誰も愛したことはありません。ただあなただけよ。」
 或いは、秋田の田舎に幼な馴染みの男でもあって、世の中を見限り、その男に嫁ぐつもりでもいるのか。
「いいえ、そんなひとは誰もありません。」
 私を睥みつけるようにして言う。
「それでは、結婚はだめだとしても、一緒に暮すことにしてはどうだろう。アパートかなにか見つけて、一緒に住み、僕は会社に勤め、君は加津美で働く……。」
「そんな面倒なことしなくても、わたし、今のままでいいわ。」
「今のままではうまくいかないと、君が言い出したんだよ。」
「だから、くにへ帰ろうかと思ったの。」
「然しね、くにへ帰りっきりに帰るのは、僕と別れることになるよ。まさか、僕まで一緒に連れていくつもりじゃあるまい。」
「あなたに百姓は出来ないわ。わたし一人で帰るの。」
「どうも、君の言うことは分らん。いったい、どうするつもりなの。僕と別れたいんなら、そう言ってくれよ。」
「いや、別れたくないのよ。あなたとは、もう別れたくない。それが、わからないの。」
 炬燵の上につっ伏して、彼女は泣きだしてしまった。
 私はもてあました。全くめちゃくちゃなのだ。何の筋道も立ってやしない。ヒステリー……或いは気が変なのか。然し、これまでそんなことは一度もなかった。彼女はいつも控え目で、内輪にしか物を言わず、駄々をこねることがなかった。それが、どうしたというのであろう。ウイスキーにさほど酔ってるとも見えなかった。むしろ私の方が酔いかけていたのだ。
 突然、一つのことが頭に閃めいた……妊娠。
 私は彼女の
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