君が女嫌い、いい取り合せだ。ただ、喧嘩だけはしてくれるなよ。」
 社長は仕事がうまくいった時はいつも上機嫌なのだ。澄江にも杯をさし、そして永田とむつかしい相談事を続けた。永田と私は、山西証券会社の謂わば社長秘書で、永田は社長のブレーンの役目をし、私はただ書類をいじってるだけである。証券会社は本来ひどく忙しい所だが、山西では重に現物を主として手堅くやっていたし、金融の方面も特別な関係だけに止めていたので、さほど人の出入りも多くなく、殊に私たちの事務はのんびりしていた。永田は頭の中では忙しかったろうが、私の方はただ機械的に仕事をするだけだった。内気で、無口で、気が利かず、隅っこに引っ込んでばかりいたがる私は、社長や永田から見れば、信用出来る男、とまではいかなくとも、少しも気兼ねのいらない男、或る意味で無視出来る男、と思われていたらしい。だから私は、加津美に来ても、二人の談話には加わらず、一人でぼんやり酒を飲んでおればいいのである。
 澄江が男嫌いだということは、私は前から聞いていたし、胸の奥の男心に、ほのかな温かみを呼び起されていた。ひとをそらさぬ女、色っぽく何かと話しかけてくる女は、私にはどうも苦手で、却って逃げだしたくなるのである。
 私はひそかに澄江の様子を窺ってみる。眼眸になにか打ち沈んだ病弱らしい影があり、口許に勝気らしい気味合いがある。丸みがかった顔立で、美人とは言えないが、頬の肉が柔かそうで、化粧のせいばかりでなく色が白い。耳は小さそうで、黒髪に半ば隠れている。縞銘仙の着物をきているが、料理屋の女中というよりは……煙草屋の娘、今はそんなものは無くなったが、昔の小説なんかに出てくる煙草屋の年増娘、そういった感じがある。
 彼女は私に酒のお酌をしながら、じいっと私の顔を見つめて――
「わかったわ。あなたは一人っ子なんでしょう。」
 そしてぱっと頬を紅くした。
 私は心にどきりとした。もし彼女が頬を紅らめなかったら、なにを生意気なこと言うかとむくれるところだったが、その頬の血いろがじかに私の心に映り、私も少し顔をほてらしたらしい。
 然し実は、私は一っ子ではない。兄も姉もある。戦争中は海軍の方に徴用されていたが、其後、生家を離れて、素人下宿の二階に、三十三歳の身を置いている。母や兄や姉など、しきりに結婚をすすめるけれど、家庭生活というものがへんに煩わしく怖いのだ。生理的慾望については、娼婦のところへ行きさえすれば、こちらは黙っていて、少しも気を遣うことなく、極めて自然に満足さしてくれる。何の気苦労もいらず、はにかむようなこともない。だが家庭では、いろいろ恥しいことがあるだろうし、極り悪いことがあるだろう。それで私は結婚については、私には理想がありますし、理想にかなう相手が見つかるまでは結婚はしません、と言い遁れてきた。理想、そんなものは実は一つだってありはしない。考えてみれば、寒々とした淋しい日々だ。
 胸のどこかを金槌でことりと叩かれたような思いで、私は澄江の顔を見返した。
「僕が一人っ子だってこと、どこで分る?」
「なんだか……静かで、そして淋しそうですもの。」
 こんどは、顔色も変えず、精一杯のような真剣さだ。
「そんなことを言えば、君だって……一人っ子なんだろう。」
 言ってから、私は顔が紅くなるのを感じた。
 彼女は返事をしなかった。私も口を噤んで、杯を取り上げた。それから、あまり口は利かなかったが、互に杯のやりとりをしながら、自然に、そして大胆に、何度か眼と眼を見合った。
 これだけのことで、二人が愛し合ったと言えば、なんだかばかげてるようだ。然し、愛情の契機なんて、たいてい些細なものである。一人っ子などと、私たちは下らないことを言ったものだが、どちらも顔を紅らめたのがいけなかった。
 私は澄江に逢いたくて、一人で加津美へ行くようになった。私は内気ではにかみやだし、彼女は無口で胸にだけ思いつめるたちだった。語り合うことは少なかったが、愛情は急に燃え上っていった。
 澄江は私の下宿へもやって来た。私は加津美へしばしば行った。澄江は叔母さんの家と加津美と、両方に寝泊りしていたので、ごまかしがきき、二人でよそへ泊りに行くことも出来た。
 いつとなく、二人の仲は周囲に知れていった。私の下宿のお上さんは、澄江を他人扱いしなくなった。加津美では、まるで芸者のように澄江が私の側につききりだった。一方、私は金に困って、永田から会社の金をだいぶ借りた。私と同じ社員である永田に、会社の金が或る程度自由になることを、私は初めて知った。もっとも、社長の黙許があったのだろう。永田は言った。
「金のことは心配しなくてもいい。君たちのことは社長もうすうす知ってるよ。然し、あまり深まにはいるなよ。」
 どの方面にも、大して障碍はなかった。とこ
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