。小さな手を差し出して、禿げ頭にそっと触れてみました。つるりと滑る感じでした。びっくりして手を引っこめましたが、頭はじっとしていました。美智子はまた手を差し出して、禿げた頭に、こんどは拡げた掌でさわりました。滑っこい冷たい感じがしました。
その時、頭がぐらりところがって、夜具の襟から、お祖父さまの顔がぬっと出てきました。とたんに、美智子は、驚いたとも恐れたともつかず、息をつめました。次に、立ち上って逃げてゆきました。
巳之助は茫然と、美智子の姿を見送りました。その泣き出しそうな顔付と、次で、小さな足袋の汚れた裏とが巳之助の眼にちらと残りました。それを心のように追っているうち、巳之助はふしぎにも、美智子から頭を撫でられたことを思い出しました。そして自分も手をあげて、はげた頭をつるりと撫でてみました。
それまでのすべてが、巳之助には夢のようにも思われました。それを心で見つめていますと、時間が止ったような工合になりました。
「美智子ちゃん……美智子ちゃーん……。」
中村家の子供が二人、庭で美智子を呼びました。美智子はその方へ行ったようでした。そして三人は椎の木のところに集ったようでした。
そこで彼等がしてる遊びの一つを、巳之助は知っていました。――椎の木の樹皮がはがれて、木質が露出してるところに、彼等は白墨でいたずら書きをしました。それから次には、ナイフを持ち出して、そこに、各自の名前を、片仮名で彫りつけはじめました。
巳之助が栗野老人に、切株を二三尺残すよう頼んだのも、そこを晩酌の席などにするつもりではなく、子供たちの遊び場所にしてやるつもりだったのです。
今もまた、子供たちはそこで遊んでいました。巳之助は眼をつぶって、子供たちの声を聞き取ろうとしましたが、何にも耳にはいりませんでした。
巳之助は思い出したように、禿げ頭を掌で撫でてみました。冷たい汗の感じがしました。
やがて、室に戻って来た看護婦は、巳之助の瞼にたまってる涙を認めました。彼女はそれに気付かぬ風を装って、顔をそむけ、眉根を寄せました。
椎の木の伐採は、簡単に行われました。枝葉を茂らしてる生木でしたならば、いろいろ壮観なこともありましたでしょうけれど、もう大半枯れてる裸木なので、異常なことはなにもありませんでした。
初めに、上枝が切りおろされ、次で、下枝まですっかり切りおろされました。一本の巨大な幹だけが残りました。それが、上方から順次に、三段に伐り倒されました。眼通り四抱えほどの大木のこととて、足場を組んで鋸で挽くのが主な仕事でした。切られた幹は轆轤で吊して、たやすく地面に転がされました。
柴田巳之助は病床に寝たまま、椎の木の方を眺めてばかりいました。椎の木が一本の巨大な棒となり、それが三分の一ほど低くなる頃には、巳之助ももう眺めるのに倦きたようでした。あまりに単純に事が運んでいたからでありましょうか。彼はただ鋸のかすかな音や人声に耳をすますきりで、それにもやがて無関心らしくなりました。眼がある以上はそれをどうにかしなければならないという風に、ぼんやり宙を見やったり、瞼をつぶったりしていました。うとうと浅い眠りに入ることが多くなりました。
体力の衰えが急に目立ってきました。それと共に、重圧めいた苦悩も静まっていったようでした。額には仄かな和らぎの色が浮んでいました。そしてそれらのすべての彼方に、或る内心の一点への想念の沈潜とでもいうべき気配が見えました。医者は訪客との面会を禁じ、絶対安静を命じていました。
椎の木の幹が全く伐り倒された日、幹夫は父の側に行って、黙って坐りました。巳之助は弱々しい微笑を浮べました。
「すっかり済んだかね。」
「済みました。」
巳之助は暫く黙っていたあとで、言いました。
「椎の木などを、へんに問題にして、少しおかしかったよ。」
「別に問題になすったわけでもありますまい。」
巳之助はそれには答えませんでした。然し、やがて、ちょっと布団の上に坐って外を眺めたいと言いだしました。幹夫と看護婦は眼を見合して、言うがままにさした方がよかろうと了解しあいました。
看護婦に援け起されて、巳之助は布団に坐りました。幹夫は縁側の硝子戸を開けました。外は静穏な日和でした。
斜陽が流れていました。庭の外れ、崖の上、一面に斜陽が流れ注いでいました。そこにはもう椎の古木はなく、晴れやかな空間がありました。その方へ、巳之助はまぶしそうに眼をやり、次でじっと瞳を据えました。そして二度大きく頷きました。
「うむ、実によい……まったく……。」そして彼はもう一度頷きました。そしてなおじっと見つめていましたが、突然、眩暈がするとかのように、顔を伏せ震える手をあげて額を押えました。幹夫と看護婦はあわてて、彼を床に寝かしました。
それから二日後、柴田巳之助は心臓の異変で息絶えました。殆んど苦悶はなく、死に顔は穏かでありました。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「暁鐘」
1946(昭和21)年6月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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