の地区を嘗めつくしてゆきました。二日の夜明けには、火先は一粁ほどのところへまで寄せてきました。潮鳴りのような音をたててる火と煙との海でした。それがどこまで寄せてくるか、予想はつきませんでした。椎の木の半面は、昼間よりも明るく、重なり合った葉の一つ一つ、樹皮の皺の一つ一つが、はっきり数えられるほどでした。然し、それだけのことで済みました。
この椎の木のほとりを、人々は避難所としました。最初の大震動の後、柴田家の人たちは椎の木のそばに集りました。余震は頻繁に起って、屋内は危険でした。夜になると、椎の木の根本に蓆と蓙と布団を敷いて、野宿をしました。両隣りの家の人たちも、そこに野宿に来ました。次の夜も、同じ野宿[#「野宿」は底本では「野原」]が続きました。
この野宿の時、七歳になる幹夫は、殆んど眠らなかったようでした。二人の姉はよく眠っているのに、幹夫だけは、いつも眼をぱっちり開いていました。久江がいくら寝かしつけようとしても、幹夫はまた眼を見開きました……。
そのことが、次の夜は、姉の千代子にも感染しました。二人とも、言い合せたように、眼を見開いては、椎の木の上方を眺めていました。久江が注意を与えると、おとなしく眼をつぶりましたが、やがてまた眼を見開きました。そして久江はうとうとしている間に、二人の囁き声を聞きつけました。
「見えるの。」
「見えるよ。」
「どこに。」
「上の方、大きい枝の、先んところ。」
「あたくし見えないわ。」
暫く言葉がとだえました。
「まだいるの。」
「いるよ。」
「うそ。」
「ほんとだよ。あの大きい枝……。」
また言葉がとだえました。
久江は半身を起しました。
「あなたたちは、何を言ってるのですか。何がいるのですか。いつまでも眠らないで、何を見ているのですか。」
千代子が答えました。
「あすこに、椎の木のなかに、フクロウがいるって、幹夫さんが言いますのよ。ねえ、お母さま、お母さまにも見えますの。」
久江は思わずつりこまれました。
「どこにいるのですか。」
幹夫が元気よく答えました。
「高いところ……いちばん上の、大きな枝にいますよ。」
久江は見上げました。こんもりした茂みで、梟の姿などは見分けがつきませんでした。然し梟といえば、夜なか、その声が聞えることがあって、茶の間から一同、耳を澄したことも何度かありました。
「あたくしには見えないわ。」と千代子が言いました。「鳴き声も聞えないじゃありませんか。」
「さわがしいから、鳴かないんだよ。」
幹夫の言う通り、遠いどよめきが、へんにむし暑い大気のなかに伝わっていました。
そのどよめきが、次第に盛り上ってきて、火災は一粁ほど先まで迫り、昼間のように明るくなりました。明るくなると却って、梟の姿はもう幹夫にも見分けられなくなりました。
屋敷内を見廻って戻って来た巳之助は、その話を聞くと、子供たちに言いました。
「火事の火で明るくなったから、梟はびっくりして、寝床に隠れたんだろう。お前たちも、もう眠りなさい。」
然し、こんどは、子供たちは火事の方に注意を向けました。
その後も、時々、梟が椎の木にとまっていると、幹夫は言い張りました。千代子は見えないと頑張りました。けれど、千代子も梟の味方で、蝙蝠を憎みました。蝙蝠が邪魔をするから、梟は椎の木に落着いていないのだと、彼等は考えました。そして蝙蝠を退治しようと苦心しました。夕方、薄暗くなりかける頃、見張っていますと、ほんとに蝙蝠がひらりひらりと、椎の木の蔭に飛んでることがありました。千代子は小さな石を投げ上げました。その石の落ちるのを、蝙蝠は追かけてきました。それを幹夫は狙いました。釣竿のような竹の先に、鳥黐をぬりつけたのを、力一杯うち振って蝙蝠を捕えようとしました。だが蝙蝠は、ひらりと身をかわしました。
或る時、その竹竿をうち振るはずみに、幹夫は転んで、石に額をぶっつけ、血を流しました。
千代子と、久江まで、大騒ぎをしました。幹夫をむりに寝かしておいて、医者を迎えました。
巳之助は、久江に相談されて、梟の剥製を探しました。震災で市街の大部分は焦土となり、莫大な死傷者が生じ、不安恐慌の気が漲り、生活の方途が混乱を来している際、巳之助は、救恤と復興との政治機関に働きながら、一方、梟の剥製を探し廻りました。やがて、幸にもそれが見つかりました。神代杉の細工枝にしっかりと取りつけたもので、羽毛が放射状に生えてる顔盤の中の真丸な眼が、生きてるように輝いていました。製作者自慢の義眼でした。
それを貰うと、幹夫は家中を駆けまわって喜びました。
椎の木の梟はいつしか忘れられ、剥製の梟が幹夫の最愛の友となりました。
そうした幹夫も、今ではもう三十歳になろうとしています。
――彼は椎の木のことを、何と思っているかしら。
柴田巳之助はそう考えて、自分の気力の衰えをちらと胸に浮べました。
そしてそれを押し切るようにして、幹夫を枕頭に呼びました。
「あの椎の木だがね、あれはもう生き返るまい。」
「ええ、とてもだめでしょう。」と幹夫は平然と答えました。
「それでは、伐ろうじゃないか。」
「そうですね、私もそう思っていました。あれがずいぶん火を防いでくれましたから、家のためには役立ったとも言えましょうが、どうせ枯れてしまうとすれば、伐るより外はないでしょう。」
「伐ってしまったら、あすこが、淋しくなるだろうね。」
「そりゃあ穴があきますよ。その代り、風通しも、日の通りも、ずっとよくなります。あんなに伸び拡がってる大木ですから、取り払ったら、びっくりするほど大きな青空となるでしょう。そのあとに、なにか元気な若木を植えたらどうでしょうか。」
巳之助は黙って眼をつぶりました。やがてまた眼を開いて、ぽつりと言いました。
「お前は、あの木に不満だったようだね。」
「不満じゃありませんよ、むしろ、大木として自慢でした。けれど、少し陰鬱でもありました。」
「陰鬱だって……。」
「蔭が多すぎたし、地面は湿気がちだったんです。木の方にしたって、あんな所では、窮屈だったでしょう。あれほどの大木は、広い野原か山にあるべきではないでしょうか。そんなことを考えると、ここに家を建てたのが、ほんとはよくなかったんですね、あのまわりを広い空地にしておけば、木のためにも、人間のためにも、よかったと思います。」
「うむ、それは面白い意見だ。」
それきり、巳之助はなにか瞑想にでもはいりこんでいったようでした。幹夫は黙って控えていましたが、あまり沈黙が続くので、何気なく言いました。
「あの木を、お伐りになりますか。」
暫く間をおいて、巳之助は独語のように呟きました。
「伐ることにしよう。」
小春日和の暖い日でありました。天気も穏かで、柴田巳之助の容態も穏かでした。栗野老人が来たことを聞くと、柴田巳之助は自らちょっと逢いました。他人に逢う時にはいつもする通り、布団の上に坐り、脇息にもたれていました。
栗野老人は、鳶職の頭、というより寧ろ仕事師の頭で、柴田家には先代の時から出入りしていました。巳之助から応対正しく迎えられて、如何にも恐縮した様子で畳表を敷きつめた縁側に身を屈め、病気見舞の言葉を述べ立てました。
それを上から押っ被せるように、巳之助は言いました。
「実は、一つ厄介な仕事があるんでね、これは、植木屋にも棟梁にも手に負えまいから、頭《かしら》に引き受けて貰いたいんだが、どうだろう。」
仕事のこととなると、栗野老人はきっと顔を挙げました。
「椎の木のことでございましょう。若旦那から承りました。」
巳之助はじっと相手の顔を見ました。
「やってくれるかね。」
「お任せ下さい。伐り倒すばかりか、薪なら薪、木っ端なら木っ端と、お望み通りにこなして御覧に入れます。椎の木ってやつは、情けないもので、木材としての用には立ちませんな。ですが、あれが焼けちまったのは、残念でした。私共が赤ん坊の時から、今通りの大きさでしたから、どれぐらい年数を経たものでしょうか。この界隈の目標で、お邸の大黒柱でしたからな。あれが焼けちまったのも、まあ、お邸の身替りに立ったものと、そう思っちゃいますが、まったく、惜しいことをしました。あのままで、上枝をおろして、苔をつけさせ、蔦でも絡ませるのも、風流なものだろうと、若旦那にも申しあげましたが、そうした庭の造作には、なんとしてもちっとでかすぎて目立ちすぎますからな。却って目障りになるかも知れません。」
「ほかの樹木をいためないように、倒して貰いたいんだがね。」
「それはもう、充分心得ております。まず見当では、三回に伐りますかな。」
「それから、切株を、二三尺残しておいてほしいね。」
「なるほど、面白いお考えですな、大丈夫、まっ平らにして、磨きをかけましょう。そこに餉台をだして、座布団を敷いて晩酌を一二本……いいですなあ、崖の上なもんで、いつも凉しい風がございますよ。中に空洞さえなければ、申し分ありませんが、勢《せい》のいい木でしたから、案ずるほどのことはありますまい。切株を二三尺。なるほど、わたくしもそこまでは考えませんでした。」
「それだけだ。頼むよ。」
「宜しゅうございます。」
栗野老人は巳之助の顔色を窺いました。なにやら苦悩めいた表情がありました。それを見て取って、栗野老人は辞し去りました。
巳之助はなお暫く坐っていました。頬の肉に軽く震えが来て、額が汗ばんでいました。栗野老人の饒舌などは上の空に聞き流していましたが、椎の木の伐採を頼む自分の言葉が、胸にひしと反響する心地で、それに沈湎してゆきました。
付添いの看護婦に促されて、巳之助は我に返り、床に就きました。湯たんぽを入れた足先になお冷たい感じがあり、胸元に熱苦しい感じがありました。それを意識から追い払うようにして、椎の木をじっと眺めました。裸の枝、黒ずんだ巨幹、それが中空に突き立ってる静けさのうちに、枯死の寂寥と寒冷とが籠っていました。
――俺はあの椎の木に、甘えてるのであろうか、それとも抵抗してるのであろうか。恐らく両方だ。死を予感する思いは、あれに甘え、その予感を克服しようとする思いは、あれに抵抗する。両者が融合する安らかな境地は、どこに見出さるるであろうか。あれを伐り倒した後の空間に、果してそれが見出さるるであろうか。それはちょっと予想のつかない空間だ。驚異を秘めてるような空間だ。
――あの椎の木には空間が足りなかったと、幹夫は言った。或はそうであろう。火災に焼けたというよりも、空間の不足に窒息したのだとも言える。椎の木ばかりではない。俺の生涯にも空間が足りなかった。官界にも政界にも空間が足りなかった。殊に俺が最も働いた大政翼賛会には空間が足りず、今から顧みても息苦しいようだった。現に俺の家だって空間が足りない。千代子一家の者が同居しているし、中村家の者も同居している。一日中、互に鼻を突き合さんばかりの有様だ。日本全体に空間が足りない。然し、この種の空間は、単に空気と言ってもよいほどのものに過ぎない。俺が今想見している空間は、なにか神秘な、深いそして高いもの、生命とじかに関わりのあるものなのだ。それが、あの椎の木を通して、そこに、あすこに在る……。
柴田巳之助はそこを覗きこんで、昏迷した心地になりました。そしてうとうとと、夢とも現とも分らない状態に沈んでゆきました。
彼が安らかに眠ってるものと思って、看護婦は席を立って、ちょっと母屋の方へ行きました。
それと殆んど入れ代りに、千代子の娘の美智子が、そっと縁側からはいって来ました。
髪をおかっぱにした、眼の大きな、この子供は、お祖父さまに馴れ親しんでいました。お祖父さまが病気になって寝ついてからも、よく病室にやって来ました。病室にはたいてい、なにかおいしい物がありました。
いま、お祖父さまは、一人きりでした。静かに寝ていました。その禿げた頭だけが、枕の上に、つやつやと光っていました。それを、美智子はふしぎそうにじっと眺めました。
やがて、美智子は寄ってゆきました
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