それで」は底本では「それで」]、諍いとなりました。
 問題があまり容易いと、巳之助は不満で、軽蔑したように言いました。
「こんなものは、小学校の問題で、くだらないよ。」
 それで、また諍いとなりました。
 そうした諍いのあと、或る時、久江はほんとに怒った顔をして、ぷいと庭へ出て行きました。そしていつまでも戻って来ないので、巳之助も庭に行ってみました。
 桜の花が枝いっぱい咲いていました。その桜の大きな幹を、久江は、小さな握り拳で叩いていました。いくら叩いても、桜の幹はびくともしませんが、それでも、花弁がひらひらと散っていました。それをもっと散れもっと散れというように、久江は幹を叩いていました。
 巳之助がそばに行っても、久江は振り向きもしませんでした。
「怒ってるの。」と巳之助は言いました。
 久江は黙っていました。その眼に、ぽつりと、光った涙がたまっていました。
 巳之助は囁くように言いました。
「もう喧嘩はやめようよ。僕たち、知ってるの、僕たち……いいなずけだって。」
 久江は顔を挙げました。そして眼の中まで、そこにたまってる涙まで、真赤になりました。それから突然、大きな椎の木の方へ逃げてゆきました。駆けてゆくあとから、桜の花弁がひらひらと散りました。
 巳之助も後を追ってゆきました。
 久江は椎の木の向う側によりかかって、遠くに眼をやっていました。巳之助もそこに並んで、遠くを眺めました。無言のうちに時間がたちました。
 頭の上の椎の茂みに、ばさっと大きな音がして、それから、ばさばさ、さっさっと、風を巻き起すような音がしました。見あげると、一羽の鳶が椎の木から飛びたったのでした。
 鳶の姿が見えなくなり、しいんとなった時、巳之助と久江は肩と肩とで寄りかかり手を握り合っていました。それから、抱きあって、唇を合せました。
 其後、長い間の愛情と親しみのあとで、二人は結婚しました。結婚生活三十幾年、今では二人とも六十歳の上になっています。
 ――あの時のことを、久江は覚えているかしら。
 柴田巳之助はそう考えてみました。それがなにか気恥しい夢のようで、眉をしかめました。
 彼は久江夫人を枕頭に呼びました。
「あの椎の木のことだがね、あれはもう生き返るまいから、伐らせようと思うが、どうだろう。」
 平素、何事によらず夫人には殆んど相談もせずに、独断で決めてしまうことの
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