……。」
 彼は驚いて、彼女の得意げな顔を見つめた。
「ええ。だってひどいんですもの。二階に上っちゃいけないと云ったり、二階に上りっきりで降りてきちゃいけないと云ったり……。あたし口惜しいから、井戸に飛びこんでやるって、庭に駆け出してみせたの。」
「なんでまたそんな喧嘩をしたんです。」
「分らないわ。お前のような親不孝者はないって、拳骨を振上げなすったから、あたし井戸のところまで駆けていってやったの。」
 彼は別に気にもかけずに聞き流したが、光子が時々井戸に飛び込むと云って駆け出すことがあるのを、房子から聞いて喫驚した。
「何か気に入らないことがあると、じきにそうなんです。本当に飛び込みもしますまいけれど、それでも心配になりましてね。」
 房子は大事な秘密をでも洩すもののように、声をひそめていた。
 ところが、或る晩、本当に騒ぎがもち上った。
 十時過ぎのことだった。突然、階下で大きな人声と物音とが起った。それから一寸ひっそりしたかと思うと、庭の方に慌しい足音がした。
 彼はぎくりとして、駆け降りていった。
 奥の座敷の真中に、松木がつっ立っていた。眼をぎろぎろさして、顔色を変えていた
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