れませんし、わたしも別段……。」
「へえー。不思議ですね。」
 どこが不思議だというような面持で、彼女はまた尋ねた。
「そして、あの穴は……。」
「古井戸を埋めた跡だそうです。」
「古井戸、」と一寸眼を見開いた。「そう分れば、安心ですわ。」
「安心ですって。」
「ええ、わたしはまた、お墓の跡ででもあると困ると思って……。」
 善良そうな眼で庭の方を透し見ていた。
 ククク……と彼は突然笑い出した。
「あら、何を笑っていらっしゃるの。」
 千三《せんみつ》や……と云っても、万に三つも当るかどうか分らない松木が、宝を掘出しそこねて腹を立てたことと、何にも知らないでいる細君が、古井戸の跡と聞いて安心したこととが、変に対照をなして、納まりかねてた彼の気持を落付かした。
 彼はまた、ククク……と独笑いをした。

      三

 ふうわりと土を被せた古井戸の跡は、降雨の度に少しずつ凹みながらも、もう穴を開くようなことはなかった。そして円い自然石だけが、荒れた庭の真中に、得意然と構えていた。
 彼はいつしか、古井戸のことを忘れかけた。ところが、その秋の或る夜、怪しい夢をみた。
 ――何処だか分らない、或る床の高い縁側に腰掛けていた。前は広々とした庭で、築山や植込の模様から配石の工合まで、昔の大名の屋敷を思わせるものがあった。その庭の真中に、井戸があった。おや、と思って見たとたんに、井戸の真上に、車巻の枠の上に、若い女が腰掛けている。着物は分らなかったが、高島田に結った綺麗な女で、彼の方を見てにこにこ笑っている。お転婆な女だなと思って、彼は二口三口からかいかけた。何と云ったのか文句は覚えていないが、女がなおにこにこしているので、次第にひどい悪口を云い初めた。するうち、女は俄にきりっと眉を逆立てて、「何を!」と男のような声で怒鳴りつけて、井戸枠からするすると下りて、真直にやって来る。彼は逃げようとしたが、どうしても身体が動かない。もう女は眼の前にやって来て、彼の着物の襟を掴んで、締めつけ初めた。馬鹿に大きな力で、大磐石にでも押えつけられたようで、いくら※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いても、身動きさえも出来なかった。女はなおも襟元をしめつけながら、ぐいぐいと押してくる。彼は縁側の柱に押しつけられ、息がつまり、身体がひしゃげ、苦しさにむーとこらえた、とたんに、ほーとし
前へ 次へ
全23ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング