歩き出した。
 彼は石のように固くなった。声が出なかった。拳を握りしめてつっ立っていた。
 その袖を、房子が捉えた。
「あなた、どうか……。宅は今気が立ってるところですから……。」
 彼女のおどおどした様子に、彼は夢からさめたように我に返った。
「もう何にも仰言らないで……。それより光子の方が……。」
 然し彼の頭は、俄にはっきりしてきて、松木から投げつけられた言葉が、胸一杯になっていた。
 黙って足を返して、松木と反対に裏口の方からはいろうとすると、その板敷の上に小さな足跡が、黒い泥跡を残していた。彼は立止ってぼんやりそれを眺めた。
 後からついて来た房子も、殆んど同時に足跡に気付いた。
「あ、これです、屹度。家にはいったのでしょう。」
 彼は咄嗟に直覚した。いきなり駆け出して、二階に上ってみると、そこの三畳の方の隅に、光子は小さくなっていた。
 彼は惘然とつっ立った。その膝頭へ、光子はふいに泣き出して取縋ってきた。
 そこへ房子もやって来た。
「まあ! お前は。」
 後は言葉がなかった。
 彼はがくりとそこに屈んで光子の頭を撫でてやった。
 房子が光子をなだめすかして、無理に階下へ連れてゆくまで、彼は一言も口を利かなかった。一人になると、押入を開いてみた。奥の方に、短刀は隠されたままになっていた。
 彼はほっと息をして、六畳の方へ戻って、机の上に両肱をつき、頭をかかえた。
 松木から真正面に投げつけられた言葉が、次第にはっきりした意味をとってきた。彼は自分と光子との間柄を考え廻して、自ら驚いて顔を挙げた。
 真暗な夜の空に、星が粗らに光っていた。
 下宿を変ろう。そう思いついて、まだ決心したともしないとも分らないうちに、眼の中が熱く涙ぐんできた。そしてまた机の上に頭をかかえた。

      九

 からりと晴れた初秋の麗かな朝日が、縁側一杯に当っていた。彼はそこに全身を投げ出して、今後の処置を思い煩っていた。
 昨夜のことはけろりと忘れはてたような、晴れやかな顔をして、光子がとんとんと階段を上って来た。が、彼女はすぐに彼の顔色を見てとって、一寸立止った。その立姿が、すっと伸びて、まだ更に伸び上ろうとしてるかのようだった。
「光子さん。」
 そう彼は呼びかけながら、半身を起した。
「なあに。」
 じっと見つめると、その敏感な眼付と耳の根本の黒子とが、今迄気付かな
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