を噤んだ。馬鹿馬鹿しいのか腹が立つのか、自分でも分らなかった。そこへ暫くしてから、房子はふいに云った。
「わたしはもう、長年のことで、諦めておりますの。」
 溜息と共に彼女がふいに涙ぐんだので、彼は茫然としてしまった。

      七

 何という変な人達ばかりの集まりだろう、と彼は考えた。そしてその考えはいつも、松木に対する憤りに落ちていった。
 然し彼は、松木に対してだけは、面と向うと、少しも物が云えなかった。庭の穴を掘り返してみた時以来、彼は碌々松木と話をしたこともなかった。そして影でただじりじりするだけだった。
 松木は[#「 松木は」は底本では「松木は」]相変らず千三《せんみつ》の仕事に、一日中馳け廻ってるらしかった。夜帰ってくると、茶の間でいつまでも煙草を吹かしたり、奥の座敷で書類と睥めっこをしたりして、家族の者とも余り口を利かずに黙っていた。
 彼も時々それと対抗するような気で、蚊に刺されるのを我慢しいしい、階下の茶の間にじっと坐ってることがあった。
 意識の全部が松木の方へねじ向けられて、じりじり苛ら立っていった。
 二十万とか五十万とか、いつも十万のつく金額ばかりを口にしてる松木、困ってくると細君の着物まで質に持って行く松木、十二三歳の自分の娘に危い狂言をさしてまで、差配を瞞着してしまった松木、細君を頭から押し伏せて、馬鹿みたいになしてしまってる松木、娘をおどかしつけて、始終恐れおののかしてる松木、碌に誰とも口を利かないで、而も何でもよく分るという松木、その松木全体の存在が、彼には堪え難いもののように思えてきた。
 日に焼けた浅黒い、いつも陰欝な没表情な額、さほどの年令でもないのに、ぽつぽつ白いのの見える五分刈の荒い頭髪、時によって妙に濁ったり鋭く光ったりする眼、頑丈そうな歯並と固い唇、太い頸筋、長い胴体、短い足、どこと云って異常な点はないが、見れば見るほど憎々しいその身体全体が、彼には堪え難かった。
 それが、そこに、電燈の光の下に、蟇蛙《ひきがえる》のようにのっそりと構えこんでいた。存在することだけで既に罪悪のようだった。
 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、彼はやはりその方へばかり意識が向いていった。手を動かし足を動かし、一寸身動きをすることまで、一々相手に反射するような気持だった。じっと我慢をしていると、額から脂汗がにじみ出てきそうだった。
 
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