。
四
それから二週間ばかりたった午後、一人の男が階下に訪れてきた。松木が不在だったので、房子が暫く応対をしていたが、やがて二人は庭に出て、古井戸のあたりで立話を初めた。黒っぽい銘仙の着流しに、古縮緬の兵児帯をまきつけた、ひょろ長い半白の老人だった。
彼は二階で書物を読んでいたが、古井戸の辺の話声に、何だか気掛りになってきて、それとなく様子を見に降りていった。すると、縁側に腰掛けてた老人につかまった。
老人は家作の差配人だということが、話の調子で彼にも分った。初めは何気なく彼に言葉をかけておいて、つまらないことで彼を引止めてから、遠廻しに徐々と、古井戸の方へ話を向けていった。その側で房子が、何だか落付かない様子で、しきりに彼へ目配せをしたが、彼はその意を察しかねて、いい加減の返辞をしているうちに、ふと、意外なことが老人の口から洩らされた。娘の光子が、屡々悪夢にうなされるというのだった。
「え、何ですって、光子さんがうなされるんですか。」
彼の喫驚した言葉に、房子ははっとして顔を伏せてしまったが、老人は切れの長い眼で、彼の顔色をじろりじろり窺い初めた。
「いえ、なあに、古井戸の跡だときいて、一寸夢をごらんなすったまでのことで、子供にはありがちのことですからなあ、御心配にも及びませんと、私から今もそう奥さんに申上げてるような次第で……。」
「そうです、何でもないことでしょう。そう云やあ実は、私でさえ変な夢を見たことがあるくらいですから。」
「ほう……してみますと何か、やはりその、古井戸のことで……。」
「ええ、馬鹿げた夢です。」
そこで彼は、房子や老人に安心させるつもりで、夢の話をごくあっさりとしてきかした。友人の昔話なんかは勿論語らなかった。
房子は始終黙っていたが、老人は次第に膝をのり出して、首を傾げ初めた。そして彼が話し終ってから、暫くして結論めいた調子で云った。
「なるほど、世の中には理外の理ということもありますからな、何とか一つ考えてみませんければ……。」
「いえ、考えて気にするから夢もみるんです。気にさえしなけりゃ、古井戸の跡なんか、どこにだってあることですし……。」
「云ってみればまあそんなものですが、奥さんも御心配でしょうし、なるべくその……世間にぱっとしない方がお互の為ですからな。」
話の調子が、初めとはまるで反対になって
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