九の女に「わたし」という青年が立退きを談判してる一節である。新鮮な感じに溢れている。新らしい感覚で捉えられたものが、ぴたりと表現されている。
ところで、この一節或は「風」全篇を読んでみると、吾々は何かしら或るまやかしを感ずる。前に述べた通り、内容と表現とを合致さしたその全体に、或るまやかしを感ずる。人生の現実の上に、何者かが何かを組立ててるように感ずる。
自然主義が、自己を空しうして余りに対象を凝視しすぎたため、或る璧につき当ったのとは逆に、感覚による探求は、ともすると、感覚の作用にばかり頼りすぎて、対象の凝視がおろそかになる。そこに危険がひそんでいる。
対象の凝視は、対象をしっかり把握せんがためのものである。そこで、対象の凝視が足りず、随って対象の把握が足りなくて、感覚がひとり跳梁する時、一種の曲芸が起ってくる。まやかしの組立がはじまってくる。空中楼閣が築かれてくる。絢爛な空疎な作品が生れてくる。
作品の内容と表現とが一致することは前に述べておいた。それで絢爛な空疎な作品というのは、内容が空疎で表現が絢爛だという意味ではない。内容も表現も、即ち作品そのものが、空疎で絢爛なのだ
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