感覚的探求

 自然主義の破綻は、多くの人々に新らしい途を辿らせた。各人が各自の方向に進んだ。我が国で、新技巧派とか人道主義とか新感覚派とか称えられたものは、批評家が便宜上名づけたものにすぎなくて、実は、そういう主義や流派は存在せず、各作家がそれぞれ各自の途を歩いたのである。一体、詩人の方は、何等かの旗幟をかかげ何等かの作詩法を提出し、何等かの主義主張を唱えることが多いものであるが、小説家の方は、ただ黙って創作することが多い。これは、両者の気質にもよるであろうが、また詩と小説との本質に関連する面白い現象である。がここでは問題外ゆえはぶく。
 ところで、前記の新技巧派と人道主義とについては、現在では殆んど論ずる必要のないことだし、また論及の遑もないが、新感覚派については、一言しておく必要がある。
 批評家が便宜上名づけた新感覚派という言葉は、小説創作上における一つの態度を暗示する。
 自然主義が現実の壁につき当って行きづまった時、或る人々は、その現実の壁を不思議そうに眺めた。不思議そうに眺めることは、新らしい眼で眺めることだ。何等の先入見もない小児のような眼で眺めることだ。すると、これまで灰色の陰鬱なものだとせられてた壁の上に、日の光が戯れ、種々の色合が躍ってるのが、次第に見えてくる……。
 そういうところから、新らしい眼で現実を見直すことになる。眼は感覚だ。そこで、新らしい感覚による探求の途が開かれる。自我を没却して現実の真に肉薄しようという態度から、自分の新らしい感覚によって現実に触れようという態度に変る。そしてその感覚をあらゆるものから解放された新鮮な状態に保つことが、第一の条件であり、その感覚で人生の現実を直接に感得することが、目標である。
 少し極端な例だが、スペインの作家ラモンの短文を二三引用してみよう。――
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 寝室にはいつも、釘で拵えたような小さな穴があって、そこから吾々は見張られている。誰かが吾々を見張っていて、決して視線を外らさない。

 世界で最も恐ろしい響きはシルクハットの落ちる音だ。

 電信局に夜遅くまで灯火がついてるのを見ると、重体な病人の室の灯火を見るような気がする……。はいっていって尋ねたくなる、いかがですかと、何か変ったことでもありますかと……。
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 見ようによっては単なる思い付
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