寥を湛える。其処を歩いていると、電車路を走る自動車の音も耳を煩わさない。対岸には、小さな社宅か寄宿舎らしい粗末な建物があり、それが人間生活の玩具箱のように見え、東京駅の大ドームが、空洞な廃墟のように思われる。――但し昼間のことは知らない。
私はその河岸ぷちを歩くのが好きで、銀座あたりで夜が更けても、わざわざ足を運ぶのだった。そして其処では、おのずから高声に物を考えるのだった。
ドン・ファンが深夜、河岸ぷちを歩いていると、悪魔が出て来た。「悪霊」のスタヴローギンが深夜、河岸ぷちを歩いていると、懲役人のフェージカが出て来た。だが有楽橋から呉服橋へかけたあの河岸ぷちには、深夜と雖も、悪魔も懲役人もいない。垂れさがってるしなやかな柳絮が、さらさらと帽子をなでるだけである。そしてただ、何故となく、私は高声に物を考えるのである。
歩きながら高声に物を考えるのは、一のリズムに身を投ずることである。私の心意も肉体も一のリズムに乗って、そのリズムが、或は紆余曲折しながら、或は飛躍しながら、進んで行く。然しそれには、何かの伴奏か、反響か、手応えが、ある筈である。
そうだとか、そうでないとか、諾否の返答が、どこからか響く筈である。好意か敵意かを含むゼスチュアーが、どこかに見られる筈である。向うの柳の木影に、或はそこの電柱の影に、何かが佇んでる筈である。掘割の底から何かの泡がたつ筈である。
然し、何物もない。私は冷たい鉄の手摺にもたれて、眼を閉じる。もう脳裡の思考もとぎれて、何物もない……。
都会のうちに真空の場所があるとすれば、恐らく、深夜のあの河岸ぷちがそうであろう。人の頭脳の空な廻転があるとすれば、恐らく、あの時の私の頭脳がそうであろう。然し、あの時の私の期待、周囲に何かのゼスチュアーを求めた期待は、今でもまざまざと覚えている。それについて、超現実的な明瞭な感覚がある。
それは、夢の名残の感覚であろうか。或は幻覚であろうか。――こんど、深夜あの河岸ぷちを歩くことがあったら、掘割の濁水に帽子を投り込んでやろう。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
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