っこしようか。」
「しましょう。」
 ジャンケン……何のためかジャンケンをして、私たちは駆け出していく。
 もう大人たちは、遠く後れて、見えなくなってしまう。私と千代子とは、駆けたり、草の上に転がったり、水にはいったり、疲れると千代子は私におぶさり、笑い戯れる……。それからまた大人たちと一緒になって、家に帰ってゆく。
 家に帰って気付いたのだが、私は千代子と笑い戯れてるうちに、大事な時計を落してしまった。ぴかぴか光っている美しい銀時計で、私には大変貴重なものだった。
 その時の印象が、今でもはっきり頭に残っている。然し不思議なのは、当時私はそういう時計を持ってたかどうか疑問である。少くとも私は、それを探しに河原へ行った覚えはない。他の凡ては事実であるが、時計のことだけが不確実で、而もその印象が最も鮮明なのである。
 時計だけを夢にみたのであろうか。
 千代子は後に結婚したが、もう此世にいない。時計のことは、誰に語る由もない。

      三

 聖パウロは、ダマスクスへ行く途中の街道で、復活せるキリストに逢った。パスカルは、初冬の深夜、神と対面した。十九世紀の中葉、十三の少女は、ルールドの洞窟の中で、聖母の姿を見た――白衣をまとい、青い帯をしめ、念珠を帯にさげ、異様な光輝にかこまれていた。
 そういう話は多々ある。ところで私は――。
 もとの一高――今の農科大学と、帝大との間の狭い通りは、どうしてか非常に埃が多く、それに自動車の通行が頻繁だから、余り気持のよいところではない。けれども、どういう加減か、時あって、自動車の通行がとだえ、人通りもとぎれ、地面もしっとりと濡い、空気が爽かになごんで、塀にはさまれたあの短い通りが、夢想の境にふさわしくなる瞬間がある。
 そういう瞬間の一つであったろう。当時大学生だった私は、和服の着流しで、ぶらりと、あの通りにさしかかった。弥生町の方から、ゆるやかな傾斜を上っていった。
 その傾斜が、俄に、急な坂道に変って、坂の上から、一人の女がやって来るのである。背の高いすらりとした姿で、そのうえ高下駄をはき、黒いコートを着て、音もなく滑るようにやって来るのである。
 その顔を一目見て、私は惘然と立止ってしまった。年齢は三十歳くらいの感じで、黒のコートにつつまれた姿は絶対的均勢を保ち、ふっくらした束髪にかこまれた顔には、理想的な女性美を示している。――女性美の理想は、人の嗜好によって異るものであって、彼女は要するに、私の理想的な美人だったのである。
 驚くべきことには、彼女は全身、異様な光輝にとりまかれていた。私はその光輝と美貌とに眩惑して、石のように佇んだ。彼女は時間の経過そのもののように移り動き、私に近寄り、私の傍を通りすぎた。私は振向いて見ることも出来なかった。心身とも甘美な恍惚状態にあったのである。
 やがて我に返ると、私の眼の正面には、燦然と黄金色に輝く夕陽が宙にかかっていた。私は眼をしばたたきながら、その夕陽の光にしみじみと浴した。
 その時の彼女を、私は今でもはっきり覚えている。いつまでも忘れることはあるまい。恐らくそれは私の永遠の恋人なのかも知れない。
 彼女がどんな顔立であるか、よく分っていながら、全然云えないのである。それは既に一種の幻影である。ヴェルレーヌも、その夢想の女が、金髪であるか褐色の髪であるか知らないと云う。ただやさしい名前で、彫像のような眼差で、今は黙してるなつかしい声の響きを持っていると云う。それはモナ・リザの微笑のように捉え難いものである。
 彼女の姿は時折私の瞼の中に浮んでくる。永く変らぬ愛というものがもしあるならば、それはまた同時に永く満されない愛であり、理想の幻に対する愛であろう。私は彼女に一つの名前を欲するのであるが、如何なる名前もぴったりとあてはまることがないのである。

      四

 ユーゴーは「レ・ミゼラブル」の中に、人は屡々高声に物を考えると書いている。それは誰でも日常経験することである。吾々が物を考えるのは言葉によってであって、その言葉が、或は心象となって沈黙し、或は低い呟きとなり、或は高声の叫びとなるのであろう――固より、脳裡に於てであるが。高声に物を考えるのは、多くは情意の昂奮している場合であろうが、然し情意の状態の如何に拘らず自然にそうなるような場所もある。
 往年、私は屡々、有楽橋から呉服橋までの河岸ぷちを、深夜、歩くようになっていた、というより、歩くようにしていた。
 夜遅くなると、あの河岸ぷちの方には殆ど人影がない。反対側の歩道は、ちょいちょい人通りがあり、その先は日本橋裏通りの賑やかな場所であるが、わざわざ掘割の岸を歩く者はないと見える。
 歩道は狭く、柳の並木があり、低い手摺の外はじかに掘割であって、満潮の折には水が深々と寂
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