ではいなかった。
 順造は安心して火鉢の前に坐った。あたらずさわらずのことを二三言云った。秋子がなお言葉の上だけで対抗してくるので、僕が悪かったよとも云った、だから謝ってるじゃないかとも云った。
「可愛さの余りについ手荒なこともするんだよ。」
 冗談だか真面目だか自分でも分らないその定り文句で、彼は一切の片をつけたつもりでいた。所がそれから二三分して、彼は秋子が涙ぐんでいるのに気付いて喫驚《びっくり》した。涙ぐんでる眼が鋭い光を放ってるのに、更に喫驚した。
「あなたはそれでいいでしょうけれど、私は……私、ただの身じゃないかも知れないと思ってる所じゃありませんか。」
 彼女は呼吸器が弱かった。肺尖|加答児《カタル》を病んだこともあるそうだった。そのことだなと順造は思った。
「じゃあ熱でも出るのかい。」
「まあ、熱ですって!……姙娠して熱の出る人があるものですか。」
 空嘯いたその調子と、尖らした口と、険を持たした眼付とから、順造はちぐはぐな印象を受けたが、次の瞬間に、言葉の意味がはっきり分ると、どん[#「どん」に傍点]と空中にはね上げられた心地がした。
「え、姙娠!」
「そうらしいわ。」
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