るのは、結婚当時の彼女だった。膝の上に抱きしめ、掌の中にまるめ込みたいような、小柄な淋しい可愛いい彼女だった。小さく清楚にちまぢまとまとまってる彼女だった。可愛さの余りに小憎らしくなって、こづき廻した事もあったが……。
 遺骨は折を見て国許の墓地に埋めるまで、寺へ預けておくつもりだったが、四十九日が過ぎると、順造はそれを家に持って来て、押入の片隅を仏壇にしつらえ、其処へ丁寧に安置した。
「これが坊やのお母ちゃんだよ。」
 順一を抱いて来て、その前を往き来した。心持ち右と左とびっこの眼で、何処からかじっと見られてる心地がした。
 この児を見守ってるのだ!
 然し、順一に母親の務めをしてるのは竜子だった。彼女は殆んど本能的な愛で順一を庇護してるかと思われた。一寸順一が泣声を立ててもすぐに飛んで来た。おおいい児ちゃん、と云って頬ずりをしていた。順一が風邪の気味だと、慌てて医者へ俥を走らせた。帰って来て、しどけない坐り方をしながら、順一を胸に抱きしめた。
「よかったわね、何でもなくて。」
 大きく揚羽蝶を染め出した羽二重の帯に、派手な小紋金紗の羽織をつけていた。方々へ香奠返しをする折に、秋子の形見分《かたみわ》けとして貰ったのを、袖丈を縫い直した衣類だった。
 順造は妙な気持で彼女の姿を眺め初めた。
 順一が少し熱を出すと、彼女は用を悉く女中に任せて、その枕頭につきっきりでいた。
「自分の子供に逢いたくはないかい。」と順造は尋ねてみた。
「いいえ、もう他人《ひと》にやってしまったものですから。」
「それでも始終考え出すだろう。順一とどちらが可愛いい?」
「それはお坊ちゃまの方でございますわ。私お坊ちゃまを自分の児の……自分の児より幾倍可愛いいか分りません。乳を上げてるばかりでなく、何だか深い御縁があるような気がしまして……。」
 そういう彼女の気持が、彼にはよく了解出来なかった。じっとその顔を眺めてやった。
「順一は仕合せだ。」
 独語の調子で云い捨てた彼の言葉を、彼女はよそ事に聞き流して、ぼんやり室の隅を見つめていたが、ふとしみじみと云い出した。
「奥様はほんとにお仕合せでいらっしゃいました。旦那様のお腕に抱かれて息をお引取りなさいましたのですもの……。」
 順造は物につき当ったような気がして黙り込んだ。秋子の臨終のことがまざまざと記憶の中に蘇ってきた。その時彼女が生きていた世界のことを思うと、眼の前が真暗なものに閉された。
 秋子が生きていてさえくれたら!
 同じような静かな夜だった。虫の声が聞えない代りに、しいんと凍りつくような底冷《そこびえ》が感ぜられた。眼の前の女が、順一の枕頭で看護してる女が、秋子であってくれたら、とふと思ったのが、いやに気分にこびりついてきた。竜子の何だかもやもやとした過剰の肉体から、むず痒いような反感と嫌悪と、また同時に好奇心とを唆られて、彼は不機嫌に黙り込んでしまった。
 竜子も黙り込んでいた。寝ている順一の赤い顔が、静かに静かに皺を寄せて、それがしまいには無邪気な微笑に変った。
「あら、何が可笑しいんでしょう。」そして竜子は順造の方を顧みた。「夢をごらんなすってるのかしら……それとも胞衣《えな》に引かされてでしょうかしら。」
 順造はふいと立ち上った。
 夢をみてか、それとも胞衣に引かれてか……その微笑が、底知れぬ闇の中まで、秋子の死へまで、根を張っていた。
 彼は恐ろしい場所をでも遁れるような心地で、離れの自分の室へはいった。ことり[#「ことり」に傍点]との物音もしなかった。彼方の室に、竜子と順一とが居ることは分っていたが、分娩の唸りとも瀕死の唸りともつかない、暗い鈍い底力のある音が湧き上って、腹だけ脹れ上った骸骨の怪物が、影絵のように浮出してきた……。
 秋子ではない、秋子ではない!
 秋子は押入の中の骨壷に[#「骨壷に」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、55−上−9]に」]、清浄な灰となってはいっていた。
 彼は押入の襖を開いた。香を焚いた。諸行無常……というよりも寧ろ、凡て空《くう》なり、その香煙が静かに立ち昇った。白布の結え目を解き、箱を開き、壷の[#「壷の」は底本では「※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、55−上−12]の」]蓋を取ると、所々黝ずんだ仄白い遺骨が、八分めばかりはいっていた。
 秋子、秋子!
 身体中が冷たくなって、髪の毛穴がぞーっとした。真白な骨片を一枚取って、歯でがりがりとやった。塩辛い味がして口の中で融けて無くなった。手に残ってるのを、またがりがりとやった。唾液を飲み込むと、胸がむかついてきた。じっと押え止めてるまに鎮まった。しいんとなった。
 彼ははっとして飛び上った。室の入口から秋子の真白い顔が覗いていた。と思ったのは瞬間で、竜子の顔に変った。それ
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