今後のことだけだった。そうだ! と彼は心のうちで叫んだ。
「姙娠ならそのままにしておいちゃいけないじゃないか。医者に診《み》せてごらんよ。産婆にもかからなきゃなるまい。何だったかな……そう、岩田帯とかもするんだろう。それから……。」
「そんなに慌てなくっても大丈夫ですよ。」
順造は気勢をそがれてきょとんとなった。それを更に頭から押被《おっかぶ》せられた。
「私はただ一つ約束して頂きたいことがあるんです。あなたは何かと云えばすぐ私を打ったり叩いたりなさるけれど、ただの身体ではないんですから、少しは遠慮なさるのが当り前ですわ。もしお胎《なか》の子供に傷でもついたら、どうなさいます? 姙娠中は転んでも危険だというじゃありませんか。七ヶ月か八ヶ月目に、縁側から足を踏み外して落っこったため、生れた赤ん坊が、顔半分すっかり赤痣になっているというようなこともあるそうですよ。手の指がくっついてたり足が曲ったり、身体の方々に赤痣があったり、……そんな子供を生んでも宜しいんですか。子供が大事だったら、少しは私をも大事にして下さるのが当然ですわ。それとも、子供なんかどうでもいいと仰言るのなら、私にだって覚悟があります。」
暫く黙ってたが、順造はぞっと身を震わした。――馬鹿に大きな凸額《おでこ》の下に、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の尖った長い顔がついていた。細い皺くちゃな眼がどんよりと光っていて、鼻は押しつぶされたようにひしゃげ、よく合さらない薄い唇から、喰いしばった歯が二三本見えていた。肩のあたりが急に太く逞しくなって、骨立った二本の手先には、指の代りに牛の蹄がついていた。赤茶けた長い髪の毛が頭にねばりついていて、全身には灰色の毛が生えていた。顔が人間で身体が牛だった。生れて三日目に予言をして死ぬという件《くだん》だった。それが、ぼろぼろの綿屑の上に、飲まず食わずで蹲まっていた。――その幻が順造の眼の前に浮んできた。何処かの見世物小屋で見物したのか、或は絵草紙か何かで見たのか、或は昔祖母の話に聞いたのか、或は夢の中で逢ったのか、何れとも思い起せなかったが、その幻だけがいやにはっきりしていた。
もしそんなものが生れたら!……いやそんなことがあろう筈はなかった。
「兎に角医者に診《み》て貰ったらどうだい。」と順造はぼんやりした顔付で云った。
「それよりも、」秋子は固執した、「これからはもう手荒なことはしないと約束して下さいますか。」
順造はその方を顧みた。いやに真剣なものが彼女の顔付に感ぜられた。まだ頭の隅に残ってる先刻の幻が恐ろしかっただけに、俄に強い愛憐の情が起ってきた。彼はいきなり彼女の背に手をかけて、その肩を抱きしめた。
「約束するよ。何でもお前の云う通り約束する。」と彼は云った。そして心の中では、お前が可愛いいんだ、ただお前が可愛いいんだ、と云っていた。
暫くして秋子はほっと溜息をついた。
「何だか頼り無い約束ね。」
「お前は恐《こわ》くないのかい。」
二人の言葉は殆んどかち合うくらいに同時に出た。そして二人は、互に相手の意味を理解するのに一寸間がかかった。それから黙り込んでしまった。
空の星がいやにぎらぎら光ってくるように思われた。順造は眼を伏せて、庭の隅に澱んでいる濃い闇を、見るともなく見守っていた。暫くすると、秋子がうっとりと星を眺めてるのに気付いて、彼は或る一種の懸念に――聖なる恐れとでも云えるものに、突然囚えられた。
「お前は、」と彼は囁くように云った、「お胎《なか》の子供に対して、どんな感じがする?」
秋子は黙ったまま、微笑んで彼の方を見返した。そんな問に答える必要はないという勝ちほこった、それでいて何処かに皮肉な挑戦的な調子を含んだ、微笑だった。が次の瞬間に、彼女はぴくりと肩を聳かして、あなたは? と眼付で尋ねかけてきた。
彼はひょこりっと立った。てれかくしに立ち上ったのではなかったが、後で自分ながらそう感じた。
「姙娠なら冷えるといけないから、中にはいろう。ほんとに注意しなけりゃいけない。」
けれど、何を云ってるんだ! という気になって馬鹿々々しかった。すぐに寝た。秋子は茶の間で暫く愚図ついていた。
その晩彼は夢をみた。朝になると、どんな夢だったかは思い出せなかったが、大変目出度い夢だったようにも、または不吉な夢だったようにも、考えようによってどちらにも感ぜられた。そして、朝日の光の中を会社へ出かけながら、オチニ、オチニ……という気持で足を運んでいった。
目出度くても不吉でも、そんなことは構わない。オチニ、オチニ……幼い時小学校でやらされた通りのその歩調が楽しかった。けれど、俺は一体子供が可愛いいのかしら。
それが問題だった。
彼の心は浮々していた。浮々しながらどんよりしたものに蔽われ
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