一人で、何物かに無性にぶつかってゆきたい気持で、順造は家の中をあちらこちら歩き廻った。その歩みの拍子につれて、いろんな考えがひょいひょいと浮んできた。――俺は一体竜子をどうしようというのか、俺の子を腹に宿してる竜子を。結婚しようというのか、別れようというのか、このままの関係を続けてゆこうというのか。俺は竜子を愛してるのか。それとも憎んでるのか。……然し俺のうちには、何等のはっきりした意志も感情もない。凡てが腐爛しきった泥濘だ。その泥濘の中で、俺が本当に愛してるのは秋子一人だ。ああ秋子、秋子!
 亡き秋子に対して、竜子は一体何ものなのか。そして、秋子と俺との只一人の子の順一に対して、竜子の腹の中に宿ってるものは、一体何ものなのか。……いや何ものだろうと構やしない。今に、今に……。そうだ、腹がむくむくと脹れ上ってきて、セルロイドの人形の腹のように張りきって、叩いたらぽこんぽこんと音を立てて、どうにも始末におえなくなって……。
 ああ秋子! お前は……。
「どうなさいましたの?」
 薄い反り返った唇をぽかんと開いて、竜子は一心に彼の方を見つめていた。彼はそれをじっと見返してやった。
「真蒼なお顔をして……。」
 云いさして彼女は俄に口を噤んだ。目玉の表面にぎらぎらした輝きが浮んで、顔全体からすっと血の気が引いていった。五秒……七秒……石のような沈黙が続いた。と彼女はふいにはらはらと涙をこぼしながら、それを自分でも知らないらしく、彼を見つめたまま口走った。
「あなたは、私を憎んでいらっしゃるのでしょう。私を……私のお腹の子を憎んでいらっしゃるのでしょう。そして、今のうちに、その子をどうにかしてしまいたがっていらっしゃるのでしょう。」
「え、今のうちにお腹の子を……。」
「ええ、そうですわ。そうですわ。口に出して云えないものだから、いろんな様子で私に悟らせようとなすっていらっしゃるのです。私に骨の折れる仕事をさせなかったり、うまい物を食べさせたりなすってるのも、本当の気持からじゃなくって、みんな皮肉に私をいじめるおつもりなんです。そして表面《うわべ》だけやさしくしながら、心のうちでは恐ろしい事を、口に云えないような恐ろしいことを、一人でたくらんでは私にそれを押しつけようとなすってるのです。私がいくら馬鹿だからって、それくらいのことは分ります。でも私、いやです、いやです。そ
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