が石のようになって、こちらを見つめていた。
「乳母《ばあ》や!」
 喫驚するほどの大きな声が出た。
「何をしていたんだ!」
 彼は飛びかかって、無我夢中で殴りつけた。彼女の身体がへなへなになって倒れたのを感じた。女中が駆けつけて来た。彼は腕を組んでぼんやりあたりを見廻した。横坐りに片手で身を支えながら震えてる竜子と、呆気に取られてつっ立ってる女中と、……廊下の隅が薄暗かった。
「散歩に行ってくる。」
 云い捨てて置いて、袖からつき込んだ左手でぐっと腹を押えながら、わざとゆっくり構え込んだ。金入を懐にし、煙草を袂に入れ、外套を着込み、帽子を被って、外に出た。
 寒い夜だった。西の空に傾いてる月の面を掠めて、白い雲が空低くちぎれ飛んでいた。
 彼は明るい大通の方へ歩いていった。風を捲き起して轟然と走り過ぎる電車の響と、何処までも続いてるレールの蒼白い輝きとが、夜更けの寒い街路に快かった。彼は真直ぐにそのレールに沿って歩み続けた。何もかも打忘れて大地の上に一人つっ立ってる気持だった。提灯をつけ大きな荷物を積んで通り過ぎた怪しい荷車が、その気持にぽつりと黒い影を落していった。
 下らないことにこだわる必要はない!
 それでも、寂しい町並に、一軒の閉め残った硝子器具店が、ぎらぎらした光りの乱射を投じてるのを見た時、彼はその中に石を投り込んでやりたくなった。石を拾うために屈もうとまでした。が、俄に馬鹿々々しくなった。彼はほっと大きく息をした。
 やがて歩き疲れると、眼に止った相当のカフェーへはいった。五六人の客が居た。その方へ背中を向けて、ウイスキーやカクテールの杯をちびりちびりと嘗めた。煖炉の火がいやにかっと熱くて、そのくせ身体は温まらなかった。彼は強いて杯の数を重ねた。腹も空いていた。料理を三四品食べた。
 電車が無くなった頃、彼はぼんやりした酔心地で家に帰って来た。寄せられる玄関の戸を押し開いたが、誰も出て来なかった。自分で締りをして、茶の間に通った。火鉢に鉄瓶の湯が沸いていて、茶道具が揃えてあった。茶をいれて飲んだ。
 家中がひっそりしていた。鼠の音もせず、人の気配もしなかった。彼は変な気持になった。女中部屋を覗いてみると、女中はぐっすり眠っていた。座敷の方を見ると……喫驚した。
 竜子が、順一の枕頭に、石のように固くなって端坐していた。
 順一の病気がひどいのかしら、
前へ 次へ
全45ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング