いた世界のことを思うと、眼の前が真暗なものに閉された。
秋子が生きていてさえくれたら!
同じような静かな夜だった。虫の声が聞えない代りに、しいんと凍りつくような底冷《そこびえ》が感ぜられた。眼の前の女が、順一の枕頭で看護してる女が、秋子であってくれたら、とふと思ったのが、いやに気分にこびりついてきた。竜子の何だかもやもやとした過剰の肉体から、むず痒いような反感と嫌悪と、また同時に好奇心とを唆られて、彼は不機嫌に黙り込んでしまった。
竜子も黙り込んでいた。寝ている順一の赤い顔が、静かに静かに皺を寄せて、それがしまいには無邪気な微笑に変った。
「あら、何が可笑しいんでしょう。」そして竜子は順造の方を顧みた。「夢をごらんなすってるのかしら……それとも胞衣《えな》に引かされてでしょうかしら。」
順造はふいと立ち上った。
夢をみてか、それとも胞衣に引かれてか……その微笑が、底知れぬ闇の中まで、秋子の死へまで、根を張っていた。
彼は恐ろしい場所をでも遁れるような心地で、離れの自分の室へはいった。ことり[#「ことり」に傍点]との物音もしなかった。彼方の室に、竜子と順一とが居ることは分っていたが、分娩の唸りとも瀕死の唸りともつかない、暗い鈍い底力のある音が湧き上って、腹だけ脹れ上った骸骨の怪物が、影絵のように浮出してきた……。
秋子ではない、秋子ではない!
秋子は押入の中の骨壷に[#「骨壷に」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、55−上−9]に」]、清浄な灰となってはいっていた。
彼は押入の襖を開いた。香を焚いた。諸行無常……というよりも寧ろ、凡て空《くう》なり、その香煙が静かに立ち昇った。白布の結え目を解き、箱を開き、壷の[#「壷の」は底本では「※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、55−上−12]の」]蓋を取ると、所々黝ずんだ仄白い遺骨が、八分めばかりはいっていた。
秋子、秋子!
身体中が冷たくなって、髪の毛穴がぞーっとした。真白な骨片を一枚取って、歯でがりがりとやった。塩辛い味がして口の中で融けて無くなった。手に残ってるのを、またがりがりとやった。唾液を飲み込むと、胸がむかついてきた。じっと押え止めてるまに鎮まった。しいんとなった。
彼ははっとして飛び上った。室の入口から秋子の真白い顔が覗いていた。と思ったのは瞬間で、竜子の顔に変った。それ
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