に、彼女は眼を開いた。
「どうしたんだい?」
彼女はぼんやりした眼付で彼の顔を探し求めた。それから微笑んだ。
「あなたでしたの。……私夢をみていた。」
「熱があるじゃないか。」
「そう?」
彼女はその朝から腹が激しく痛んだそうだった。余し腹痛は産後も屡々あった。子宮が収縮する度に痛むのですから、痛むほど早く元に直るのですよ、と産婆が云った言葉を彼女は思い出して、彼にも黙っていたのだった。所が午頃《ひるごろ》から激烈な疼痛がやってきた。床の上に身をねじって苦しんだ。痛みが去るとねっとり汗をかいていた。それが頻繁にやってきた。夕方になって少し遠のいた。それからうとうと眠ったそうだった。
「腹の痛みはともかく、ひどく熱があるようじゃないか。」
「そう?」と彼女はまた半信半疑の答えをした。
熱を測ると彼は喫驚した。三十九度一分に上っていた。
先ず産婆を呼ぶことにした。女中が駆け出して行った後で、彼は和服に着代えて食膳に向った。秋子は何も食べたくないと云った。それでも赤ん坊に乳をやっていた。
間もなく産婆が来てくれた。産婆にもよく分らなかった。その紹介で、産科婦人科の坪井医学士に頼むこととした。近所の電話をかりてかけさせると、すぐに行くとの返辞だった。
秋子はまた腹痛を訴えだした。産婆の指図で、腹部に温湿布をし、頭に氷嚢をあててやった。痛みが去ると、彼女はまたうとうとしていた。
すっかり夜になってから、坪井医学士が来てくれた。胸部の聴診の時に、以前呼吸器の病気をしたことはないかと聞かれた。肺尖加答児をやったことがあったね、と順造は秋子に尋ねた。秋子は首肯いた。然しその時もう医学士は、腹部の診察にかかっていた。産婆が側についていてくれた。子宮の内診の時に、順造は座を外した。
診察が済んで、女中が茶を持ってゆく時、順造はまたその室に戻った。
「病名は今の所まだはっきりしませんが……明日まで経過をみたら大抵確定するつもりです。」と医学士は云った。「然し熱が高い間は、兎に角授乳は控えといたが宜しいでしょう。」
明朝までに便《べん》を少量届けてほしいと頼んで医学士は帰っていった。
産褥熱! 非常に恐ろしい病気のように聞いていたその名が、順造の頭に閃いた。彼はそっと産婆に尋ねた。産婆はそうらしくはないと答えた。それでは窒扶斯《チブス》かも知れなかった。然しそれを産婆は
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