が、産婆が何かの用事にかかったので離室《はなれ》の自分のへ[#「自分のへ」はママ]逃て行った。
大丈夫だ、大丈夫だ! 何がかは分らないでただそういう気持がした。
時計を見ると、十二時を少し過ぎていた。あたりが静まり返っていた。雨の降るらしい音が一寸したので、耳を澄したがはっきり分らなかった。窓を開いてみた。妙に空気が稀薄に思えるような、澄み切った静かな夜だった。空には星が一面に輝いていた。
彼はその星々を眺めた。空高く一際輝いている星が一つあった。それに眼を定めてると、冴え返った光りが心の中まで沁み込んできた。星と人間の運命とを一緒にして考えた古人の思想が、嬉しく胸に蘇ってきた。人が生れるのは上潮《あげしお》の時だ、そういうことまで思い出された。
上潮だ、上潮だ!……星が光ってる!
嬉しさとも淋しさともつかないもので、胸が一杯になった。
産の始末がすっかり済んでしまってから、彼は産婆と助手と一緒に、取っておきの鮨を茶の間で食べた。
「実は心配しておりましたんですよ。予定よりだいぶお早くて、お児さんの位置が骨盤まで下っていなかったものですから、手間が取れはしないかと思っていました。それでも案外早くお生れなさいましたので、結構でございました。発育も十分でございますよ。」
産婆はそんなことを一人で饒舌《しゃべ》っていた。順造はただ短い感謝の言葉を述べた。
産婆が帰っていったのは、午前二時頃だった。順造は女中を寝かして、一人起きていた。床へはいる気がしなかった。
今晩はよくお眠りなさるが宜しゅうございますよ、と帰りしなに産婆が云ったその熟睡を、秋子はなかなか得られないらしかった。心身の疲労にうち負けてうとうとしながらも、暫くするとぱっちり眼を見開いた。そしては赤ん坊の方を気にした。
「大丈夫だよ、」と順造は云った、「よく眠ってるようだから。」
「そう。……あなたもお寝みなさいな。」
声の調子が以前よりは、弱くはあったが澄み切っていた。
虫の鳴く声が遠くに響いていた。
「ほんとによかったね。」
順造が独語のように低く云った時、秋子はまたうとうととしていた。一寸眼を開いて彼の顔を見たが、彼が黙ってるのでまた眼を閉じた。
茶色の勝った大きな布団と赤っぽい小さな布団と、二つ床を並べて寝ている母と子を、順造は何とも云えない心地で眺めた。恐れていた幻影の彼方か
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