「いつから?」
彼女は何とも答えないで、じろりと彼の顔を見やった。もうずっと前からであること、確かであることを、その眼付が語った。気分が悪いと云ってぶらぶらしてたり、食慾が非常に減ったり、何事にも興味を失って苛立ったり、しきりに酸っぱいものを欲しがったりしたのは、考えてみると可なり以前のことだった。
ほう、そうかなあ! というような心地で順造は小首を一寸傾げたが、そのまま心が宙に浮んで、何処へ落着けていいか分らなかった。
彼は立ち上って室の中を歩いた。縁側に出て両腕を組みながら、其処に腰掛けて足をぶらぶらさした。
長い間たったようだった。秋子の方から彼の所へやって来た。
「明日《あした》もお晴天《てんき》のようですわね。」と彼女は云った。
実際、広々とした夜の空には銀河が輝いていた。然しそんなことはどうでもいいのだった。取澄ましてる彼女の全身を、非難の塊《かたまり》のように順造は感じた。果して彼女は云い進んできた。
「あなたは、私が姙娠したのが御不満なんでしょう。」
「馬鹿なことを云うな!」
一寸|気色《けしき》ばんでみたが、それから却って感傷的な気分をそそられて、彼は秋子を其処へ坐らした。彼女は逆らわなかった。それを彼は更に自分の膝に抱いてやりたかった。けれど……。
変梃な気持だった。――折にふれて漠然と頭に浮べたこと、夫婦生活の結果として何気なく想像したこと、僕の所はまださなどと平気で友人等に答えながら、もしそうなったらと後でぼんやり空想したこと、それとは全く異っていた。何だかこう得体《えたい》の知れないものが、眼の前に現われてきたのだった。秋子の腹の中に小さな卵が――幼虫が宿って、それがだんだん大きくなってゆき、恐ろしい勢で外に飛び出し、それが一個の人間――自分の血を分けた子供……となる。そのことが実際に起りかけてるのだ。
「おい。」と彼は云った、「お前は本当に姙娠しているのかい?」
「ええ、どうもそうらしいわ。」
彼女はその態度から声の調子まで落着き払っていた。
順造は縁からぶら下げてる足をやけにばたばた動かした。
「どうなすったの?」
振り向いてみると、笑ってる彼女の眼がこちらを覗き込んでいた。彼は軽蔑されてるような気がして不愉快だった。眼を外らして考え込んだ。が、もう何にも考えることはなかった。それにきまってるとすれば、残ってるのは
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