幻の彼方
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)喫驚《びっくり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)肺尖|加答児《カタル》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぐる/\
−−
一
岡部順造は、喧嘩の余波で初めて秋子の姙娠を知った。
いつもの通り、何でもないことだったが、冗談半分に云い争ってるうちに、やたらに小憎らしくなってきて、拳固と肱とで秋子をこづき廻した揚句、ぷいと表へ飛び出してみたけれど、初夏の爽かな宵の空気に頭が落着くと、先刻からのことが馬鹿々々しくなり、秋子が可愛くなって、また家に帰ってきた。顔を膨らして長火鉢にしがみついてる彼女へ、変にむず痒いような心地で云いかけた。
「何をしてるんだい。」
「知りませんよ。」
つんと澄ました声だったが、もう刺を[#「刺を」は底本では「剌を」]含んではいなかった。
順造は安心して火鉢の前に坐った。あたらずさわらずのことを二三言云った。秋子がなお言葉の上だけで対抗してくるので、僕が悪かったよとも云った、だから謝ってるじゃないかとも云った。
「可愛さの余りについ手荒なこともするんだよ。」
冗談だか真面目だか自分でも分らないその定り文句で、彼は一切の片をつけたつもりでいた。所がそれから二三分して、彼は秋子が涙ぐんでいるのに気付いて喫驚《びっくり》した。涙ぐんでる眼が鋭い光を放ってるのに、更に喫驚した。
「あなたはそれでいいでしょうけれど、私は……私、ただの身じゃないかも知れないと思ってる所じゃありませんか。」
彼女は呼吸器が弱かった。肺尖|加答児《カタル》を病んだこともあるそうだった。そのことだなと順造は思った。
「じゃあ熱でも出るのかい。」
「まあ、熱ですって!……姙娠して熱の出る人があるものですか。」
空嘯いたその調子と、尖らした口と、険を持たした眼付とから、順造はちぐはぐな印象を受けたが、次の瞬間に、言葉の意味がはっきり分ると、どん[#「どん」に傍点]と空中にはね上げられた心地がした。
「え、姙娠!」
「そうらしいわ。」
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