蚊帳の上の天井の所に、ぼんやりした円い明るみがあった。それが白張の提灯で、室の中がぼーっとしている。いやにひっそりしてるな、と感じた瞬間に、月の光りと変って、磁石のような執拗さで、円いのへ引きつけられてしまった。身動きが出来なくて眼を据えると、それが俊子の顔だった。真黒な瞳と真白な歯とでにっと笑った。かと思うまに、細そりした指先がその上を掠めて、円いのがゆらゆらと揺いで、ふっと消えた。しいんとなった。
 一寸間があった……のは、夢とも現ともつかなかったからで、本当に眼覚めると、ぞっと総毛立って、手足の先まで冷りとした。
 そのまま暫くじっとしていたが、それが、俄に恐ろしくなって、いきなり飛び起きた。咄嗟に隣りの室へ飛び込んだ。
「姉さん、姉さん!」
 釣手を引き切られて落ちてきた蚊帳の下から、漸く匐い出して来た姉は、彼の様子を見てはっと身を退いた。それを構わず、彼は腕に縋りついていった。
「姉さん!」
 息がつけないのを、むりに云い進んだ。
「恐いから、こつちへ寝かして下さい。」
 姉も慴えていた。何とも云わないで、隣の室から彼の布団をずるずる引張ってきた。耳を澄しながら、間の襖をそっと閉めた。
「蚊帳をつっちゃいけません。」
 云い捨てて彼は布団を頭から被った。
 蚊帳を片付けていた姉は、俄にそれを向うへ投り出して、布団の中にもぐり込んだ。夜着の下から、震える手先を伸して彼の方へ縋りついてきた。

     十

 彼はどうしてもその理由を云わなかった、云えなかった。
 毎晩、姉と同じ室に床を並べて、蚊やり線香をたいて寝た。けれども、夜中に時々|魘《うな》された。昼間も遠くに幻が浮んでくることがあった。
「自分でも分らないのなら、せめてお医者に診《み》て貰ったらどう? ね、そうなさいよ。」
 不気味な不安さを覚え出してる姉の手前、それをも拒むわけにはゆかなかった。無駄だと知りつつ医者を迎えた。行きたくなかったので来て貰った。何を問われても、変な夢をみるというきり黙っていた。強度の神経衰弱という名目の下に、何だか甘っぽい水薬が与えられた。
「ふん。」
 鼻の先で嘲って、室の中をぐるぐる歩き廻った。それが自分でもおかしくなって、くすりと忍笑いをしていると、姉が向うの室からじっと様子を窺っていた。
「ばアー。」と冗談におどかしてやろうとしたが、それが何だか真剣になりそうな気がして、自分でも恐ろしくなった。足が悚んで動かなかった。
 けれど、姉の方が妙に悚んでいた。蒼ざめた顔をして、頬の筋肉をぴくぴく震わしていた。
 彼は黙ってその前を通りすぎた。
「何処へ行くの。」
 帽子を取ってる時に、後ろから呼ばれた。
「一寸散歩にいってきます。」
「今日はお止しなさいよ。」そして次に哀願の調子で、「行かないで頂戴よ、つね[#「つね」に傍点]やも居ないし、私一人だから。」
「つね[#「つね」に傍点]は何処へ行ったんです。」
「一寸其処まで。」
 帽子をまた釘にかけて、黙って自分の室へ戻ってゆき、縁側に腰をかけて、足をぶらぶらやってると、彼は急に淋しくて堪らなくなった。
「なぜかは知らねど心迷い、むかしの……。」
 ふと口に出てきた歌を、何度も何度も低くくり返した。俊子が何処かに立ってるような気がした。
 薄曇りの佗びしい夕方だった。かさかさと枯葉の音がする。それが胸にしみ渡った。耳を澄していると、静に表の格子を開く音がした。それから一寸間を置いて、喘ぐような声で、
「急いで来たものだから息が切れて。」
「御免なさい、ふいにお呼びして。」
「いいえ。そんなにお悪いの。」
「それがねえ……、」
 とだけ聞えた。
 玄関でひそひそ話してるのは、姉と俊子だった。
 彼は我を忘れて立ち上った。頭がかっとして胸騒ぎがした。まごまごしてる所を、玄関から上ってくる俊子とばったり眼を見合った。どうにも出来なかった。頭を垂れて、其処に坐った。熱い塊りが胸の底からこみ上げてくるのをじっと堪《こら》えた。
 俊子はつかつかとやって来た。
「御病気ですってね。ちっとも存じなかったものですから……。」
 それを姉が側から引取った。
「いえ、病気というほどのことじゃないのよ。神経衰弱ですって。」
「そう。」
 一寸まごついた其場しのぎの返事をして、姉と意味ありげな目配せを交した後に、また彼の方へ向いて、
「海は頭に余りよくありませんのよ。私も帰ってから四五日の間は、何だかぼんやりしていましたわ。」
 それらの様子が変だった。が、青っぽい羽二重の帯を胸高にしめ、上からお召の羽織を背抜き加減に引っかけて、その紐を胸に小さくきっと結え、無雑作に分けた髪を耳の上で一つねじって低めに束ね、細い頸筋を差しのべて、心持ち眉根を寄せながら、睫毛の長い澄みきった眼で彼の方を窺ってるのは、や
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング