てる耳朶の下に、四五筋のほつれ毛がそよいでいた。
 松林の影にはいった時、波音が俄に高く聞えてきた。足下の草は露に濡れていたが、松の梢はかさかさ乾いていそうな夜だった。
 暫く行くと、その向うの左手に、四五本の雑木が、こんもり蹲っていた。彼ははっとしたが、足を止めるまもなく、先日の提灯はもう無くなってることを知って安堵した。
 と同時に、ぱっと明るくなった。薄暗い海を背景にして、なだらかな砂浜が浮き上っていた。見渡す限り広々として何もない、冴え返った月の光りが、降り濺ぐように一面に落ちている。波の音が消えて、しいんとした蒼白い明るさだった。透明な深い水底ででもあるかのよう……円い月がぎらぎら輝いて見えた。
 彼は足を早めて俊子に追い縋ろうとした。途端に、鉛色の月の光りが彼女の髪をすっと滑り落ちて、振り向いたその顔が、真白な歯並と真黒な瞳とを投げ出して、にっこと微笑んだ。瞬くまも許さない咄嗟だった。
 ぞっとした。ぶるぶると身体が震えた……とまでは覚えていたが、あとはただしいんとなった。
「静夫さん!」
 胸にしみ通るような細い声が聞えたので、彼はふと眼を見開いた。嵩高な女神の端正さを持った俊子の上半身が、降り濺ぐ月の光りの中に浮んでいた。……と思うと、心持ち左に傾いたその顔が、ぼやぼやとくずれた。
 彼女の腕の中に在る自分自身を、彼は全身で感じた。細かな震えが背筋を流れて、歔欷と涙とがこみ上げてきた。……が、
「どうしたの。」
 彼女の声は澄みきって響いた。
 それでまたぞっとした。いきなりその腕を払いのけて、砂浜の上を駆け出した。後から彼女が追っかけてきた。息がつけなかった。砂の上にどっかと坐って、眼をつぶった。
「静夫さん!」
 柔かな手を肩に感じた時、彼は初めて我に返った心地がした。眼を開いてみると、それはいつもの俊子だった。
 見開いた眼が濡んでるようだった。高い鼻のために淋しく見える頬が、血の気を失って、真蒼だった。きっと結んでる口が少し開いて、やさしい含み声で、
「何に慴えたの!」
 云ってしまって彼女はほっと息をした。
 彼はぼんやり立ち上った。
「恐いことを思い出して……。」
 とでたらめに云い出したのを、彼女からじっと覗き込まれて、先が云えなくなった。頭の奥がしいんとして、胸が高く動悸していた。二人共黙り込んで、沖を眺めやった。時の歩みが止ったような時間だった。
 そこへ、姉がこちらを何やら呼びかけながら、向うの松影から駆けてきた。
 彼は初めて、俊子の眼をじっと見入った。それに応えて彼女の眼付が首肯《うなず》いた。瞬間に彼女はくるりと向き直って姉を迎えた。
 岸に近い波音を、月の光りが上から押っ被せていた。が、海は沖の方でも鳴っていた。

     九

 東京に帰ると、海岸よりむし暑くはあったが、それでも秋がしみじみと感ぜられた。避暑地気分がなくなったせいばかりではなく、朝は冷かな霧が罩め、晩には凡てのものがしんと冴えていた。姉弟と女中と三人住みの小さな家にはわりに広すぎる庭に、しきりに鳴いている虫の声が、金属性の震えを帯びていた。
 それが彼には妙に淋しかった。
 が、そればかりではなく、実際不思議な淋しさだった。
 帰京の日は、旅の慌しさに何にも感じなかったけれど、翌日から、海鳴の音が時折耳にはっきり蘇ってきた。おかしいなと思うと、冴え返った月が見えてきた。月ならば東京にも輝ってると思い返したが、それがまた変にぎらぎらと生々しい月で、その下に広い砂浜がうち開けて、誰かが向うを向いてじっと佇んでいる。俊子だ……と気がつくと、頭がぼーとした。胸が切なかった。やけに身体を揺ってみた。
「静ちゃん、何してるの、震えるような恰好をして。」
 姉がこちらを見ていた。
「頭が妙に重苦しいから。」
 それで身体を揺るって奴もないものだけれど、姉は追求して来なかった。それをいいことにして彼は毎日、頭が重苦しいと云っては家に引籠っていた。
 月の光りを浴びて砂浜に佇んでる姿は、夜になると殊にはっきりしてきた。海水着一枚の半裸体で――月夜にしては変だけれどそれがしっくり調和していた――いつまでもじいっと、向うを向いたまま立っていた。……それを、力一杯に而もそーっとこちらへねじ向けてやると、真白な顔が、滝のような月の光りを浴びて、その底からにっこり微笑んだ。
 彼はぞっとした。……が、危く喉から出かかってる声を抑えるまがあった。電燈の光りが静まり返っていた。雨のように繁く虫の声が聞えてきた。外には月が冴えてるに違いなかった。
「いやな人!……何でそんなに私の方をじっと見つめてるの。」
 雑誌をぱたりと畳に伏せて、姉は身を起しながら向き直った。
「何でもありません。」
 とまではよかったが……。
 夜遅く、彼はふと眼を覚した。
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