な時間だった。
そこへ、姉がこちらを何やら呼びかけながら、向うの松影から駆けてきた。
彼は初めて、俊子の眼をじっと見入った。それに応えて彼女の眼付が首肯《うなず》いた。瞬間に彼女はくるりと向き直って姉を迎えた。
岸に近い波音を、月の光りが上から押っ被せていた。が、海は沖の方でも鳴っていた。
九
東京に帰ると、海岸よりむし暑くはあったが、それでも秋がしみじみと感ぜられた。避暑地気分がなくなったせいばかりではなく、朝は冷かな霧が罩め、晩には凡てのものがしんと冴えていた。姉弟と女中と三人住みの小さな家にはわりに広すぎる庭に、しきりに鳴いている虫の声が、金属性の震えを帯びていた。
それが彼には妙に淋しかった。
が、そればかりではなく、実際不思議な淋しさだった。
帰京の日は、旅の慌しさに何にも感じなかったけれど、翌日から、海鳴の音が時折耳にはっきり蘇ってきた。おかしいなと思うと、冴え返った月が見えてきた。月ならば東京にも輝ってると思い返したが、それがまた変にぎらぎらと生々しい月で、その下に広い砂浜がうち開けて、誰かが向うを向いてじっと佇んでいる。俊子だ……と気がつくと、頭がぼーとした。胸が切なかった。やけに身体を揺ってみた。
「静ちゃん、何してるの、震えるような恰好をして。」
姉がこちらを見ていた。
「頭が妙に重苦しいから。」
それで身体を揺るって奴もないものだけれど、姉は追求して来なかった。それをいいことにして彼は毎日、頭が重苦しいと云っては家に引籠っていた。
月の光りを浴びて砂浜に佇んでる姿は、夜になると殊にはっきりしてきた。海水着一枚の半裸体で――月夜にしては変だけれどそれがしっくり調和していた――いつまでもじいっと、向うを向いたまま立っていた。……それを、力一杯に而もそーっとこちらへねじ向けてやると、真白な顔が、滝のような月の光りを浴びて、その底からにっこり微笑んだ。
彼はぞっとした。……が、危く喉から出かかってる声を抑えるまがあった。電燈の光りが静まり返っていた。雨のように繁く虫の声が聞えてきた。外には月が冴えてるに違いなかった。
「いやな人!……何でそんなに私の方をじっと見つめてるの。」
雑誌をぱたりと畳に伏せて、姉は身を起しながら向き直った。
「何でもありません。」
とまではよかったが……。
夜遅く、彼はふと眼を覚した。
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