んとする。其処に大なる危険が存する。
 偶像に支配されることは最も危険なことである。何となれば、行為の責任は直接に人に返って来るから。ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだ人は、主人公ラスコルニコフのうちにこのことを感じ得らるる筈だ。(勿論主要な問題は他に在るが)。そしてラスコルニコフが結末に於て救われたのは、少くとも救わるるであろうと思われるのは、此の偶像を心のうちで破り捨てたからであった。
 然し最も悪いのは、偶像に引き戻されることだ。偶像に引きずられることだ。そして倫理的に死滅を遂げることだ。
 吾人は常に自分の心から自分で動き出さなければいけない、他のものから引きずられてはいけない。これは永久の真理である。
 倫理的行為の価値は、責任の感じから出立して来なければならない。全く動機を除外した所に、全く盲目的な所に、全く責任の除外された所に、倫理的価値評価が成り立つものではない。そして責任ということは、自ら意識して動き出した所にしか存しない。凡て強いられた所に、盲目的に引きずられた所に、責任なるものがある筈はない。もしあるとすれば、それは自己の微弱であったこと、それだけの責任だ。それは倫理的の責任ではない。それは直接に、自己もしくは神を対象とする責任だ。そしてそれはやがて、釈迦の雪山の修業やキリストのゲッセマネの祈りに通ずべき一歩だ。然しそれは改めて説かるべき問題で、私はそれに就いて今茲に云々することを避けよう。
 倫理的責任は、常に自由なる意志の働きから出て来るものである。そしてその責任を背負わない人があるとしたら、否そういう責任から常に免除せられている人があるとしたら、それは精神的奴隷に外ならない。自分で歩き得ない奴隷だ。そしてそれは倫理的死を意味する。何となれば、自己の為した意に対する責任を有しないというのはまだしも、自己の為した善に対する責任を有しないということは、全くフェータルなことであらねばならぬ。
 此の倫理的死滅から脱するために、吾人は自由なる意志の働きに帰らなければならない。然しそれは、本能に帰ることではなく、自由に帰ることだ。盲目に帰ることではなく、知慧に帰ることだ。実感と信念とに帰ることだ。頭を牢獄から解放し、魂を裸にすることだ。
 如何なる時代如何なる場所に於ても、常に人を囚えんとする多くの牢獄や殻が存する。私はそれを偶像と名づくる。吾々は
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