な老いた駄馬であった。身体中《からだじゅう》にはむく毛が渦を巻いてい、長い尾の先はよれよれになって赤茶け、足には草鞋をはき、首を前方につき出し、光りの失せた眼を地面に落し、口からは泡を垂れながら、重い荷を引いてことりことりと、淋しい街道を辿《たど》っていた。
彼は不快な気分になった。その不快の中に深入りしないために、新聞紙を取り上げて、面白くもない記事に隅々まで眼を通した。それからしまいには、囲碁の処を狭く折り畳んで、その布石の順序を一々辿っていった。
瀬川が戻って来た時は、もう日も陰りかけ、食事の用意も出来上っていた。
「海はいいね。」と瀬川は云った。「僕はまだ、大空のような芸術というのは信じられない。然し、海のような芸術、或は山のような芸術というのは、信じられるような気がする。そういう芸術ならあり得るような気がする。」
然し彼は、それに対して何とも言葉を発しなかった。そして一寸沈黙が続いた後、彼の妻は別のことを云い出した。
「瀬川さんは随分でたらめの話がお上手ね。」
「どうしてです?」
「そら、さっき、真面《まじめ》目そうな顔をなすって、馬の脊髄がどうだのこうだのって、すっかり私をかついでおしまいなすったじゃありませんか。」
「いやあれは、実際聞いた通りをお話したんです。ただあれが事実かどうか知りませんが、兎に角忠実な報告であってでたらめではありませんよ。」
「然し実際そういうこともあるかも知れない。」と彼は口を入れた。
「もう奥さんから聞いたのかい。」と瀬川は云った。「僕も変な話だとは思ったが、友人がどうしても本当のことだと云い張るんでね。」
「それでは、」と妻が云った、「あなたもかつがれた方の仲間ね。」
「いや嘘らしい事実も世にはあるものさ。」と彼は結論した。
そして自分の結論に彼は自ら不安になった。此度《こんど》は妻と瀬川とがそれを信じない方の側になって、彼一人がその説を支持してる形になった。彼の頭にはまた惨めな駄馬の姿が映じた。「その脊髄を……」と考えると、彼は何とも云えぬ胸悪さを感じた。
食事がすむと、「碁を打とう」と彼は云い出した。身体に障るといけないと云って、妻と瀬川とはそれをとめた。然し彼はきかなかった。口を利くのが嫌だった。また瀬川を前に置いて黙ってるのも嫌だった。敵愾心に似た漠然たる感情が彼のうちに澱んでいた。彼はその感情の出口を碁の勝負に求めた。「君がやらないなら僕一人でやる。」とも彼は云った。
妻と瀬川とは仕方なしに彼の言葉に従った。その上、雨戸をしめ切った室の中は、火鉢に沸き立っている鉄瓶の湯気で暖くなっていた。彼は床の上に起き上り、高く積んだ蒲団に背中でよりかかって、碁盤を前にした。彼と瀬川とはどちらも笊碁ではあるが、互先のいい相手だった。
彼は黙《だま》って石を下した。何だか頭のしんに力がなく、注意が盤面にぴたりとはまらなかった。然しやってるうちに、後頭部の方から熱っぽい興奮が伝わってきて、次第に気分が戦に統一されてきた。そして自ら知らないまに三十|目《もく》ばかりの勝利を得た。
「病気して強くなったね。」と瀬川は云った。
所が二度目になると、彼の石の形勢がひどく悪かった。方々に雑石が孤立するようになった。彼はじっと盤面を見つめて、頽勢を挽回すべき血路を探し求めた。然しあせればあせるほど、頭の調子が妙にうわずって、肝心な所で行きづまってしまった。敵の陣形は如何にも横風《おうふう》で、衝くべき虚がいくらもあるように思われたが、実際石を下してみると、つまらない所で蹉跌したりした。そのうちに彼は、自分の中央の大石が、先手の一著で死ぬ形になっているのを見出した。然しその時、右下隅の攻め合いに彼はどうしても手をぬくことが出来なかった。どうにでもなれ! と彼は思った。そして愈々隅の攻め合いに負けてしまっても、中央の大石をそのまま放って、他の所に石を下した。中央の石になるべく触れないようにと瀬川が遠慮してるのが、はっきり[#「はっきり」は底本では「はっり」]分ってきた。その石を取られては、目もあてられない惨敗に終るのは明かだった。もしその石が活きても、彼の方に勝目はなかった。
もう終りに近づいた頃、彼はどうしても中央に石を下さなければならない手順となった。そして黙ったままその大石に一著を補って活《いき》とした。瀬川が素知らぬ風を装ってることが、ちらと動いた頬の筋肉で彼に感じられた。
彼の方が十七目負けだった。
「此度は勝負だ。」と彼は云った。
瀬川は戦争を避けよう避けようとするような石の下し方をした。彼がいくら無理な攻勢に出ていっても、瀬川は地域に多少の犠牲を払ってまで戦争を避けた。そして平凡のうちに彼の方が勝となった。
「も一番やろう。」と彼は云った。
「いやもう止《よ》そうや。またこの次にしよう。」と瀬川は答えた。
彼は黙って碁盤を側《わき》に押しやった。屈辱とも憤激とも云えないような感慨が心のうちに乱れた。
「君は卑怯だ。」と彼は口に出して云った。
「いや、長く打たないせいか、どうも調子が変だ。」と瀬川は別な答え方をした。
「あなた、もう横におなりなさいな。」と妻が云った。
彼は床の中に身体を伸した。枕に頭をつけると、顔だけが妙にほてって、身体に不気味な悪寒を感じた。訳の分らない涙が眼にたまってきた。
彼はそれから殆ど口を利かなかった。その上もう九時を過ぎていた。余り病人を疲らしてはいけないというので、皆寝ることにした。それに、彼はいつも晩早く寝て朝早く眼を覚ます習慣になっていた。
「電気を暫く消してくれないか、何だか妙に眩《まぶ》しいから。」と彼は妻に云った。
静かな柔かな闇に包まれると、神経が穏かに和らいで、彼は銷沈しきった気分に浸されていった。骨の髄まで妙に力がなくて、手足がばらばらになったような深い疲れを感じた。そして意識が次第に蝕されてゆくような、何もかも投り出した安らかな昏迷のうちに、彼はうとうとと眠りかけた。
どれ位時間がたったか彼は覚えなかった。何かの気配《けはい》にふと眼を開くと、室には明るく電灯がともされて、妻が一人枕頭に坐っていた。
「お眠りになって?」と彼女は云った。
「うむ。」と答えたまま、彼はぼんやり妻の顔を眺めていた。
暫くして彼女はまた云った。
「何だか額がお熱いようで心配だから、熱を測ってごらんなさらない。」
「うむ。」と彼はまだぼんやりして答えた。
「碁なんかなすったから、また熱が出たのじゃないでしょうか。」
然し熱を測ると、六度八分きりなかった。彼女は検温器を電気にかざしながら微笑《ほほえ》んだ。眉根に小さな皺を拵らえて軽い憂いを額に漂わしながら、口元の筋肉を弛めて白い歯並をちらと覗かした。その心配と安堵とを一緒にした彼女を見て、彼は妻を美しいものに思った。
「何でそう私の顔を見て被居《いらっしゃ》るの?」と彼女は云った。「御気分でもお悪いの? お疲れなすったのでしょう。お眠りになれて? ぐっすりお眠りなさるといいわ。」
彼は何とも答えなかった。彼女の顔から眼を外らして、天井の隅にぼんやり視線を投げながら、妻の美しい肉体のことを想った。転地してから二ヶ月、最近感冒から気管支に加答児を起した危険な二週間、その間のことを考えた。殆んど看病ばかりに日を暮している一彼女、その彼女の肉体の忘られたような性的生活、……そして今、自ら知らずして覗き出したその肉体の魅力。彼は何とも云えない淋しい気になって云った。
「もうお寝みよ。」
「ええ。」
すぐ彼の前に展《の》べられた妻の寝床から、彼は反対の方に寝返りをした。眠ろうと思って眼をつぶったが、頭のしんが妙に冴え返って眠れなかった。
「瀬川君は?」と彼はふと尋ねてみた。
「もうお寝《やす》みなすったわ。」と後ろで妻の答える声がした。
彼はまた眼を開いて、一日のことをぼんやり思い出した。そうしてるうちに、襖の笹の葉模様を見つめている眼の方に注意が向いてきた。その襖を距て、六畳の一室を距てて、安らかに眠ってる瀬川の様が頭に浮んできた。するとそれがしきりに気になり出した。彼は深く息をして、左手を額にあてた。――瀬川がこの同じ屋根の下に眠ってるのが、どうしてこう気にかかるんだろう。瀬川が安らかに眠ってるのが、どうして自分の神経に触るんだろう。――そう考えれば考えるほど、益々彼は眠れなくなった。けれども頭の奥には、軽い痛みをさえ覚えるほどの疲労が蔽いかぶさっていた。
彼は、妄念を吐き出そうとするように深く息をした。そして、肩をすぼめて寝返りをした。すぐ眼の前で、こちらを向いて寝ている妻が、大きく眼を開いていた。
「おやすみになれないんでしたら、少し頭でも揉んであげましょうか。」
「いや、すぐ眠れそうだ。早く眠りっこをしよう。」
「ええ。」と答えて彼女は眼で微笑《ほほえ》んだ。
彼はそっと蒲団で眼を隠した。淋しい涙が眼瞼を溢れてきた。そしていつまでも続いた涙が漸く乾きかける頃には、彼は我知らずうとうととしていた。
翌朝彼はいつになく遅く眼を覚した。朝日の光りが斜に、障子を隈なく照していた。その障子を開かせると、露と霜とに濡れた爽かな庭が、すぐ眼の前にあった。彼はそっと床の上に上半身を起して、庭の方へ向き直った。弾力性を帯びたように思われる黒い大地が、彼の心を惹きつけた。素足のままその上を歩いてみたい欲望が、胸の底からこみ上げてきた。もうだいぶ長く土を踏まないなという考えが、根こぎにせられたような佗しさを彼の心に伝えた。彼は食い入るような執拗な眼を、じっと地面に据えていた。
その時、瀬川が木戸口から庭へはいって来た。その姿を見ると、彼は急に狼狽したような気持ちになって、また床の中にはいった。
「こんなに早くから起きてたりなんかして、大丈夫なのかい。」
「うむ、もういいんだ。それに僕にとっては早朝でもないんだからね。」
瀬川は縁側《えんがわ》から上って来た。
「海に行って来たがいい気持ちだね。君も外を歩けるように早くなり給えな。」
瀬川は頬に生々《いきいき》とした血を通わして、喫驚《びっくり》したような大きい眼をしていた。
「君、今日は晩までいいんだろう。」と彼は云った。
「いや、いつも余り長く邪魔《じゃま》してもすまないから……、それに今日は少し用もあるので、九時ので帰ろうかと思っている。」
「然し大した用でもないんだろう。」
「大した用というほどでもないが。」
「ではせめて昼御飯でも食べていってくれないか。僕は一人で淋しすぎる位淋しいんだから。僕は黙ってるかも知れないが、それでよかったら、せめて午頃までこの室に寝転んでいってくれない?」
瀬川は黙って彼の方を見た。
「黙っててもいいんだろう。」
「ああそれの方がいい。」と瀬川は云った。「昨日《きのう》は君が何だか苛々してるようだったから、僕は一人心配してたんだよ。黙ってるなら午《ひる》までいよう。僕はこの縁側で日向ぼっこしながら、雑誌でも読むとしよう。」
「ああそうしてくれ給えな。」
彼はそれで凡てが、まとまりもないただ凡て[#「凡て」に傍点]が、よくなるような気がした。そして親しい瀬川の顔を見ると、何となく力強くなるような気がした。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「太陽」
1920(大正9)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング