たいような気分に浸された。そして最後の言葉を投り出すようにして口早に云ってのけた。
「然し余り無理してはいけないよ。神経も余り尖りすぎると却って自分を傷けるからね。」
「自分を傷ける……。」そう鸚鵡返しにして彼は口を噤んでしまった。
先刻から紅茶を運んできて二人の話を聞いていた妻は、その時言葉を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ。
「可笑しな人達ね、逢うと早々から議論なんか初めて。」
「ははは、」と瀬川は笑った、「なるほど、まるで病人に議論でもふっかけに来たような工合になってしまいましたね。」
瀬川のその笑いに彼は冷たいものを感じた。それから自分を病人という普通名詞で呼ばれたのに対して、軽い反感が起った。その冷かさや反感はやがて、彼を憂欝な気分に引き入れてしまった。彼は心とあべこべな口の利き方をした。
「今日はゆっくりしていってもいいだろう。」
「そうだね、別に急ぎもしないけれど……。」
「それでは泊ってったらどうだい。」
「然しいつも邪魔ばかりしてるからね。」
「なに構やしない。僕は退屈してる所だから。」
それから彼は黙り込んで、ぼんやり天井板を眺めながら、また時々妻と瀬川との話の音声を耳にしながら、鬱屈してくる感情の底で考えた。――瀬川こそ自分の親友だ。忙しい中を度々訪れて来てくれては、大抵一晩位は泊っていってくれる。而も肺結核という自分の病気を恐れもしないで、一緒に食事をし、一緒に寝転んで、距てない話をしてくれる。然し、そういう瀬川の友情を喜び感謝しながらも、なぜ自分は彼が来ると一種の気づまりを感ずるのであろうか。彼が余り長居するのがいけないのであろうか。平素の淋しい自分は彼の長居を却って喜ぶ筈ではないか。また彼とても、仕事の合間合間の気晴しに、別荘にでも来るような気で、自分を訪ねてくれるのではないに違いない。自分に何かと力をつけてくれたり、自分の身体を心配してくれたりする彼の友情は、美しい深いものに違いない。然るにそれを初め感謝していた自分の心は、なぜこの頃一種の反撥を感ずるようになったのか。学生時代の友情は一種の特権を与えるが、友情が特権を与えなくなる時もやがて来るのか。
其処まで考えてきて彼は淋しくなった。自分自身が淋しくなった。そして眼を閉じた。
「まだ眠いのかい。」
そういう声がしたので眼を開くと、瀬川が彼の方を覗き込んでいた。彼は苦笑しながら答えた。
「うむ。今日はどうしたのか妙に眠い。」
「ではゆっくりお眠りなすったらどう?」と妻が云った。「その間瀬川さんには海の方でも散歩して来て頂いたら……。私は晩の仕度を整えておきますから。」
「それがいい。」と彼は云った。「今晩は何か少し御馳走をおしよ。瀬川君、失礼だが僕は少し眠るから、海の方でも歩いて来ない? 晩秋の海っていいもんだよ。」
「僕もそう思ってた所だ。では夕方また此処《ここ》で、三人落ち会うとするかね。……此の次は君も一緒に散歩出来るといいね。」
瀬川が海の方へ出て行くと、彼は横に寝返りをして、襖の紙の枇杷色をじっと眺めていた。すると妻がその顔を覗き込んで云った。
「あなた、今日はどうしてそうお眠いんでしょう?」
彼は妻の顔をちらと眺めて答えた。
「なに、別に眠かないが、少し一人で居たかったからああ云ったんだ。」
「それなら初めからそう被仰《おっしゃ》ればいいのに。瀬川さんに遠慮なんかいらないじゃありませんか。」
「然し折角来てくれたんだから、そうもいかないさ。それはそうと、今晩何か御馳走をおしよ。」
「ええ。」
彼は暫く考えてから遂に云い出してみた。
「さっき妙な夢を見たよ。」
「どんな?」
「何でもね、広い野原だ。いつまで行っても野原ばかりで、畑も丘も見えない。僕はその中を非常な速さで横ぎっていった。まるで汽車にでも乗ってるようで、とても人間の足の速さではない。その上自分の身体《からだ》はじっとしていて、ただ周囲の景色だけがずんずん後に飛んでゆくんだ。変だなと思うと、その時初めて気が付いた、僕は馬に乗っていたんだ。素敵に立派な馬でね、その馳け方の速いったらないんだ。得意になって鞭をあてていると、どうも様子が変なので、そっと下を覗いてみた。するとどうだろう、馬は僕を乗せて空中を翔《かけ》っているんだ。天馬空を翔るとはあのことだね。所がそれに気付くと同時に、僕は頭がぐらぐらとして、真逆様に地面に落ちてしまった。」
「それから?」
「落ちると同時に眼が覚めてしまった。」
「変な夢ね。」
「全く変な夢だよ。」
「おかしいわ。」
「何が?」
「実はさっき瀬川さんから馬について妙な話を聞いたのよ。」
「うむ。」
「瀬川さんのお友達のまたお友達ですって、肺結核で長く患っていらしたが、どんな手当をしてもよくならないで、だんだん悪くなって、しまいには入院なすったそうですの。何でも長崎とか云っていらしたわ。そして愈々もう手当のしようもないという時になって、其処の院長さんが、最後の試みに或る療法をされると、それですっかり直っておしまいなすったそうです。その療法というのは、馬の脊髄を取って注射するんですって。そういう説は前からあるにはあったんだそうですが、そのためにわざわざ馬一匹殺さなければならないから、実際には余り応用されたことがないとかいうお話ですわ。」
「なんだつまらない。」
「でも本当に利目が確かでしたら……。」
「僕にやったらどうかっていうんだろう。」
「ええ、余り長くお悪いようですと。」
「然し実際効能が確かなら、今迄に随分行われてなけりゃならない筈じゃないか。わざわざ馬を殺さなくても、屠殺所でそれを取ったらいいわけだからね。」
「私も変に思ったんですが、瀬川さんのお話は全く本当のことだそうですから。」
「で瀬川君は何と云っていた。」
「別に何とも仰言らないで、ただそういうことがあるといって、御自分でも半信半疑で被居るようでしたの。」
わざわざ夢まで拵え出してそれとなく尋ねてみた「馬の話」が、案外つまらない内容だったので、彼は心構えをしていた感情のやり場に困った。そして妻の顔をじっと眺めた。
「お前は瀬川君にかつがれたんじゃない!」
「いいえ、全く本当らしいお話でしたのよ、でもなおも一度お尋ねしてみましょうか。」
「なにいいさ、そんな話は。」
暫く沈黙が続いた。
「では私、」と妻はふと思い出したように云った、「仕度をして参りますわ。御用があったら呼んで下さいね。」
彼は黙って首肯《うなず》いた。
一人になると彼は、暫く眼をつぶっていたが、やがて身体を少しずらして、縁側の障子を眺めた。西に傾いた日の光りが、障子の下の方三分の一ばかりを明るく照していた。そして節くれ立った木の枝が一本淡い影を投じて、それに一羽の小鳥がとまっていた。それらのものに彼はいつのまにか見覚えが出来ていた。庭の片隅にある梅の枝と、日に当ってる雀であった。彼はそれにちっと眸を定めた。雀はいつまでたっても動かなかった。可愛いい小首を傾げたり翼を動かしたりすることを期待してる彼の眼は、殆んど自棄的な気長さを強いられた。凡てはただ事もない明るい静けさのみだった。梅の枝の影が障子の上を静に移ってゆくのが感じられるまでになっても、雀は身動きさえしなかった。それを見てるうちに彼は恐ろしく退屈になった。
彼はまた頭を枕につけて眼を閉じた。転地して来てからの二ヶ月間のことが頭に映じてきた。それがまた恐ろしく退屈なものであった。
彼は深い憂鬱と銷沈とに陥っていた。それはふとした気分の転機から、いつもよく陥ってゆく空虚な淵であった。夢の中で高い処から下へ落ちてゆくような気持ち、それに甘えながらもそれに息づまるような気持ち、そういう気持ちで彼は空虚な淵の中へ沈んでいった。何をするのも懶いがまたじっとしても居れなかった。底知れぬ寂莫の感が胸の奥からこみ上げて来た。眼を閉じるとあたりが薄暗い荒廃の気に鎖されそうな思いがした。彼は大きく眼を開いて、眸をぼんやり天井に向けていた。然し何も見てはいなかった。
彼はその空しい寂莫のうちに甘え耽りながら、どれ位時間がたったか知らなかった。その時女中のはる[#「はる」に傍点]が、一通の手紙を持って来た。
「奥様は只今手が汚れて被居《いらっしゃ》いますから。」と彼女は云った。
手紙は東京の秀子から妻へ宛てたものだった。彼はその封を切った。例の通りつまらないことをも甘ったるい文句で長々と認めて、終りに、静子さんをも誘って明後日あたり遊びに行くかも知れないというようなことが、書き添えてあった。
手紙を読んでるうちに、彼の心は次第に明るくなった。読み終ってそれを枕頭に放り出すと、彼の気分は一種の快い雰囲気に包まれていた。彼女等の派手な衣裳の色彩や明るい声の調子などが、彼の頭に浮んできた。
すると彼の心のうちに、妙な矛盾が起ってきた。一瞬間前の陰欝な気分と現在の快暢な気分とが、その間に不調和な溝を拵らえて、彼の心の中で互に面し合ったからである。自分でも訳の分らない妙な矛盾さであった。そしてそれを見つめながら、彼はいつもの癖となってる、きびしい自己解剖に耽っていった。
――病人にとっては、男性の力よりも女性の柔かさの方がよほど快い。看護人はどうしても女性に限る。――そういう点から彼は、思索……というより寧ろ夢想の糸口をたぐっていった。すると先日、妻が用達しに出かけていた時、見舞に来ていた秀子とぽつぽつ意味もない話をしていた時、ふと窓硝子が人の息に曇る位の軽やかな心地で、もし僅かな事情の差があったら自分は秀子と結婚していたかも知れない、というようなことを、これからでも何かの機会で秀子と恋し合わないとも限らない、というようなことを、感じたことがあったのを思い出した。凡てのことは偶然の機会によって決定されまた偶然の機会によって覆えされ得る、というような気がしてきた。平素安心して信頼しきってることもいつどうなるか分らないような不安な気がしてきた。凡ては気まぐれな運命の僅かな歩み方に懸ってるような気がしてきた。――自分は何かのことで秀子を恋するようになるかも知れない。そして自分の妻も何かのことで、例えば……瀬川を恋するように……。
其処《そこ》までくると、彼の夢想はぐるりと一つ廻転した。――瀬川だって、何かのことで自分の妻を恋するようになるかも知れない。瀬川がああやって自分を訪ねて来てくれるのも、妻が居るからかも知れない。もし自分一人だったら、あれほどよくは訪ねて来てくれないかも知れない。少くとも妻が居ることは、自分一人でいるよりも瀬川にとっては快いことに違いない。自分の経験から云っても、下宿に一人で転ってる友人を訪れるのよりは、若い妻君の居る友人を訪れる方が気持ちがいい。そして……。
その時、白いエプロンをかけた妻の姿が現われた。彼は夢のようなぼんやりした気持ちでその方を眺めやった。
「秀子さんから何と云って来ましたの?」と彼女は云った。
彼は俄に夢想から外に放り出されたまま、一寸答えの言葉も口から出て来なかった。
「一寸拝見。」
そう云って彼女は手祇を読んだ。
「まあ嬉しいこと。ほんとに二人で来て下さるといいわね。」
「うむ。」と後は機械的に返事をした。
妻がまた台所の方へ立って行くと、彼は自己嫌悪に近い苛ら立った気持ちになった。余りに馬鹿馬鹿しい考えに、(而も余りに馬鹿々々しいため却って油断してはいけないような考えに、彼は一種の憤激を感じた。そしてその憤激のやり場を求めるように、「病気がいけないのだ、長い退屈な病気がいけないのだ、」と彼は心のうちに叫んだ。然しそれでも、心の底に軽い憤懣の念が動くのを、どうすることも出来なかった。
――兎に角早く病気を治《なお》すことだ、と考えて彼はしいて心を落着けようとした。もし馬の脊髄が結核に効果があるなら、それを注射しても構わない。
然しその時彼の頭に浮んだ馬は、胴の毛と尾とを短く刈り込み、足には鉄蹄をつけ、鬣を打って嘶く、逞しい乗馬ではなかった。惨め
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