疲労が蔽いかぶさっていた。
 彼は、妄念を吐き出そうとするように深く息をした。そして、肩をすぼめて寝返りをした。すぐ眼の前で、こちらを向いて寝ている妻が、大きく眼を開いていた。
「おやすみになれないんでしたら、少し頭でも揉んであげましょうか。」
「いや、すぐ眠れそうだ。早く眠りっこをしよう。」
「ええ。」と答えて彼女は眼で微笑《ほほえ》んだ。
 彼はそっと蒲団で眼を隠した。淋しい涙が眼瞼を溢れてきた。そしていつまでも続いた涙が漸く乾きかける頃には、彼は我知らずうとうととしていた。

 翌朝彼はいつになく遅く眼を覚した。朝日の光りが斜に、障子を隈なく照していた。その障子を開かせると、露と霜とに濡れた爽かな庭が、すぐ眼の前にあった。彼はそっと床の上に上半身を起して、庭の方へ向き直った。弾力性を帯びたように思われる黒い大地が、彼の心を惹きつけた。素足のままその上を歩いてみたい欲望が、胸の底からこみ上げてきた。もうだいぶ長く土を踏まないなという考えが、根こぎにせられたような佗しさを彼の心に伝えた。彼は食い入るような執拗な眼を、じっと地面に据えていた。
 その時、瀬川が木戸口から庭へはいって来た
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