えなかった。何かの気配《けはい》にふと眼を開くと、室には明るく電灯がともされて、妻が一人枕頭に坐っていた。
「お眠りになって?」と彼女は云った。
「うむ。」と答えたまま、彼はぼんやり妻の顔を眺めていた。
 暫くして彼女はまた云った。
「何だか額がお熱いようで心配だから、熱を測ってごらんなさらない。」
「うむ。」と彼はまだぼんやりして答えた。
「碁なんかなすったから、また熱が出たのじゃないでしょうか。」
 然し熱を測ると、六度八分きりなかった。彼女は検温器を電気にかざしながら微笑《ほほえ》んだ。眉根に小さな皺を拵らえて軽い憂いを額に漂わしながら、口元の筋肉を弛めて白い歯並をちらと覗かした。その心配と安堵とを一緒にした彼女を見て、彼は妻を美しいものに思った。
「何でそう私の顔を見て被居《いらっしゃ》るの?」と彼女は云った。「御気分でもお悪いの? お疲れなすったのでしょう。お眠りになれて? ぐっすりお眠りなさるといいわ。」
 彼は何とも答えなかった。彼女の顔から眼を外らして、天井の隅にぼんやり視線を投げながら、妻の美しい肉体のことを想った。転地してから二ヶ月、最近感冒から気管支に加答児を起し
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