金魚
豊島与志雄

「金魚を見ると、僕はある春の一日のことを思い出して、いつも変な気持になる、」と云ってSが話したことを、そのまま三人称に書き下したのが、次の物語りである。

 彼は愉快で堪らなかった。何故だか分らなかったが、心が軽く空中に漂っているような心地だった。愉快というものは、うち晴れた空に浮んでる雲のようなものだ、と彼は思った。
 それは美しく晴れた春の日だった。
 朝八時半に眼を覚した。考えてみると、丁度十時間ばかり眠ったらしかった。暫く床の中でぼんやりした後、起き上ると、頭が常になく爽かだった。
 朝食を運んで来た女中の右の頬に、薄すらと黒いものがついていた。彼はその顔を見つめた。女中は一寸微笑みかけたが、慌てて右の袂を飜えして顔を拭いた。「まだついていますか、」と彼女は尋ねた。そのきょとんとした眼付が可笑しかった。
 円くもり上って宝石のような光りを持ってる、小皿の中の鶏卵の黄味に、障子の硝子から射す朝日の光りが映っていた。
 食後障子を開け放しながら、寝転んで煙草をふかしていると、縁側に小さな蜘蛛の子が、すうっとあるかないかの糸を垂れて下りてきて、そのまま何処かへふう
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