、もう何の音もしませんでした。
 しばらくすると、キシさんはあわててあかりをつけて、出ていきました。そしてすぐ、木の下につないでおいた二頭の馬を引っぱってきて、馬車《ばしゃ》につけました。
「馬を盗まれたら大変だった。こうしておけばだいじょうぶだ」
 そしてキシさんはまた眠ってしまいました。奇術師《きじゅつし》になりすましてはいますが、やはりだいたんな李伯将軍《りはくしょうぐん》です。太郎もチヨ子も、それに安心してやすみました。

 それから長くたって、馬車が激しくゆれて、みんな目をさましました。馬が足で地面をしきりに蹴っていました。
 キシさんはむっくり起きあがって、窓を開きました。外はほの白く、夜が明けかかっていました。そしてすぐそこに、まるい帽子をかぶった大きな男がふたりじっと立っています……。
 向こうも黙っていました。こちらも黙っていました。黙ってにらみあっていました。
 やがて、ふたりの男の内のひとりが、まっすぐに手を上げて、森の方を指しながら言いました。
「すぐに立ちのけ」
「なぜですか」
と、キシさんはとぼけたように言いました。
「すぐたちのくんだ」
と、男はくり返しました。
「何かあるんですか」
「なんでもよろしい。すぐ立ちのけ」
と、男はくり返しました。
 そのようすにも、声のちょうしにも、なにか力強いものがこもっていて、命令するのと同じでした。
 しかたがありません。キシさんは御者台《ぎょしゃだい》に上りました。馬は走りだしました。
 けれども、キシさんが馬を進めたのは、男から指し示めされた森の方へではなく野原の方へでした。そちらが金銀廟《きんぎんびょう》のほうにあたるのです。
 そして野原の中を、三十分ばかり進んで、それから馬車《ばしゃ》をとめて、みんな外に出て、朝の食事を始めました。

 その時、向こうの地平線のあたりから、何かぽつりと黒いものが出てきました。見ているうちに、それがだんだん大きくなります。近寄ってきます……。馬にのった一隊の人々です。銃や剣が朝日にきらきら光っています。全速力でやってきます……。
 キシさんをまっ先に、太郎もチヨ子も立ち上がりました。そして馬車に乗りましたけれど、もう逃げるひまはありませんでした。
 百人あまりの匪賊《ひぞく》でした。風のように襲《おそ》ってきました。十人ばかりの者が、銃や剣をさしつけて、馬車をとりまきました。ほかのものは、叫び声をあげ、ひとかたまりになって、向こうの村へ進んでいきました。
 人のいないひっそりした村のようでしたが、村人達は家の中にひそんでいたのでしょう。そこへ、襲いかかったのです。そしてもう、激しい銃声《じゅうせい》がおこっていました。
 その遠い銃声を聞きながら、十人ばかりの匪賊《ひぞく》に囲まれて、キシさんと太郎とチヨ子は、馬車《ばしゃ》の中にじっと息をこらしていました。ただチロだけが、チヨ子の膝の上にきょとんとしています……。
 匪賊共は、馬車をとり巻いたまま、中のようすをうかがっていました。
 やがて、匪賊のひとりが声をかけました。
「お前達は、何者だ」
「ごらんのとおりのものです」と、キシさんが落ちつきはらって答えました。
 二、三人の匪賊が、そっと馬車の中をのぞきこんで、みんなのようすをじろじろ眺めました。
「ほほう、手品《てじな》か奇術《きじゅつ》でも使うのか」
「そうです、手品もやれば奇術もやります」
と、キシさんは言いました。
「あちこち旅してまわっているうちに、道に迷って、困っているとこです。どこか金もうけができるところへ案内してくださいませんか。手品や奇術にかけては、世界一の名人ですよ」
 匪賊たちはしばらく、互いに何か相談しあいました。
「よろしい。それでは、おれたちのところへ来い。おれたちはな、金銀廟《きんぎんびょう》の玄王《げんおう》の手下の者だ。安心してついて来るがいい」
 キシさんはもとより、太郎もチヨ子も、内心はっとしました。金銀廟の玄王……チヨ子の父、李伯将軍《りはくしょうぐん》キシさんの主人……その玄王をたずねて、苦しい長い旅をしてるのです。けれど、玄王は、匪賊にうち負けて、行くえがわからなくなっているとのことですし、今こやつたちは玄王《げんおう》の手下だと言っていますし、どうも不思議でなりません。
 キシさんは、太郎とチヨ子にめくばせしました。そして匪賊《ひぞく》たちに答えました。
「金銀廟《きんぎんびょう》の玄王……噂《うわさ》に聞いたことがあるようです。それでは、そこへ案内してください」
 匪賊が案内してくれるので、道に迷う心配はありませんでした。そのかわり、山坂になってる野原を駆け続けるので、つらい旅でした。そして二日目の夕方、金銀廟の城につきました。
 キシさんとチヨ子にとっては、なつかしい故郷でした。白い塔はもとより、山にも木にも草にも、あらゆるものに見覚えがありました。
 馬車のまま城の中にはいって、長く待たされて、それから広間に通されました。
 荒くれた人たちがおおぜい、酒盛をしていました。
 正面にあぐらをかいてる、首領《かしら》らしい男が、大きなさかずきをおいて、三人のほうをじっとにらんで、いいました。
「手品《てじな》とか奇術《きじゅつ》とかをやるというのは、お前達か。ひとつやってみせろ」
 キシさんは、ていねいではあるが、きっぱりしたちょうしでたずねました。
「あなたが玄王《げんおう》というお方でございますか」
「なに、玄王だと……玄王はいま病気だ」
「それじゃあ、奇術はまあやめましょう。金銀廟の玄王のところへといって、連れてこられたのですから、玄王の前でまずやらなければ、奇術の神様が怒ります」
「奇術《きじゅつ》の神様とはなんだ」
「奇術の神様です。私共の奇術は、その神様からさずかった、とうとい術ばかりです。神さまにうそをつくようなことをしてはいけません」
 匪賊《ひぞく》の首領《かしら》は、言葉につまってうなりました。そしておこりました。
「ふらちなことをいう奴だ。よし、奇術をしないというなら、ちょうど、五十人ばかりの捕虜《ほりょ》がきているから、明日の朝、その首きりの役をさせるぞ」
 キシさんは考えこみました。
 ところが、キシさんのかわりに、ニャーオと……猫が鳴きました。太郎が上着の中にかくして抱いていたチロが、外に出たくて鳴きだしたのです。そしてあばれだしたのです。しかたがないので、太郎はチロを出してやりました。チロは喜んで、広間の中を駆けまわりました。
 匪賊たちはびっくりしたようでした。それから、不思議そうにチロをながめて、ささやきあいました。
「まっ白な猫だ」
「金目銀目《きんめぎんめ》だ」
「金銀廟《きんぎんびょう》に祀ってあるのとそっくりだ」
 太郎はチロを追っかけました。
「チロ、チロ……おいで、チロ……」
 匪賊の首領はチロにひどく心を引かれたらしく、立ち上がってきてチロを捕まえようとしました。太郎はすばやくチロを胸に抱きあげました。
「いやだよ、これ、ぼくたちの大事な猫だよ」と、太郎は言いました。
「奇術《きじゅつ》の神様のお使いだよ。そまつにすると、ひどい罰があたるよ」
 首領《かしら》は座《ざ》に戻って、腕を組んで、三人の奇術師のようすをながめました。
「どうも、不思議なやつらだ。とにかく、明日の朝、首きりの役を言いつけるぞ」
 キシさんは平然《へいぜん》と答えました。
「ひきうけましょう。奇術でやってみましょう。五十人の首ぐらい、またたくまに打ち落としてみせますし、お望みなら、その首をまたつなぎあわしてもみましょう」

      チロの国

 その夜、奇術師に化《ば》けてる三人は、城の中のせまい一室に、とめおかれました。
 三人は、ひそひそ相談しあいました。いろいろ危急《ききゅう》なことがかさなっています。そしてまず第一に、玄王《げんおう》のことをさぐりださねばなりません。
 夜遅く、城の中の匪賊《ひぞく》達が寝しずまったころ、太郎とチヨ子は起きあがって部屋から出ていきました。チヨ子は城の中のことをよく知っていますので先に立って進みました。
 奥の方の部屋に行って、大きな声でチヨ子はいいました。
「もしもし、金目銀目《きんめぎんめ》の猫が、どこかへ行ってしまいました。こちらに来ませんでしたか」
「チロ、チロ、チロや……」
と、太郎は呼びました。
 そして二人で、部屋の中を探しました。
「うるさいな。猫なんかいないよ。ほかを探してこい」
 二人は、ほかの部屋に行きました。
「もしもし、金目銀目《きんめぎんめ》のネコが来ませんでしたか」
「チロ、チロ、チロや……」
 寝ていた匪賊《ひぞく》達は目をさましました。
「うるさいな。ネコなんかいないよ」
 そして二人は、あちらこちら探しまわりました。
 奇術師《きじゅつし》の子供達が猫を探しているので、誰も怪《あや》しむものはありませんでした。
 けれどじつは、玄王《げんおう》のことを探偵《たんてい》しているのでした。
 あちらこちらはいりこんで、それから、金銀廟《きんぎんびょう》の方へ行ってみました。
「もしもし、金目銀目の猫が来ませんでしたか」
 小さなランプのついてるきりの、うす暗い中から、二―三人の男が[#「二―三人の男が」は底本では「二|三人の男が」]起きあがりました。
「うるさいな。猫なんかいないよ。病人がいるきりだ」
「いいえ、確かにチロが、こっちへ逃げて来たんです」
 ふたりはどしどし、中にはいっていきました。
 奥の方に祭壇があって、金銀の厨子《ずし》の中に、猫の像が金目銀目を光らしており、いろんな不思議な器物が並んでいました。そしてその前に、病人らしい男が寝ていました。
 その病人の側に、チヨ子は立ち止まって、じっとその顔を見ていましたが、石のようにかたくなって、それから、ぶるぶる震えだし、そこにかがみこんでしまいました。
 そのとき、病人はふいに、はね起きました。
「猫のことは、私が知っている。みんなしばらく外に出ていてくれ」
 それを聞いて、ほかの男たちは、外に出ていきました。太郎は入口の見張りをしました。
 そして、太郎がふり向くと、病人とチヨ子とはもうしっかりと抱きあって、泣いていました。病人はそのやせた手で、チヨ子の頭や背中をなでさすり、チヨ子は病人の胸に顔をおしあてて、どちらも黙ったまま、涙を流しています……。
 その病人こそ、玄王《げんおう》だったのです。チヨ子の父だったのです。おたがいに話したいことが、どんなにたくさんあったことでしょう。また、どんなに涙が流れたことでしょう。
 太郎は両腕をくんで、脇の方を向いて、じっと立っておりました。
 金銀廟《きんぎんびょう》の中の部屋で、あたりは、しーんとしていました。

 何もかもすっかり、はっきりしました。
 匪賊《ひぞく》の首領《かしら》は、玄王《げんおう》のふいを襲って、その城をのっとりましたが、負傷した玄王を人質《ひとじち》にとって、金銀廟の中におしこめ、自分は玄王に仕えてる者だ、と、勝手にいって、ふきんの土地を治め、やがてはその王になるつもりでした。けれど、玄王の部下たちがあちらこちらにいて、なかなか思うようになりませんでした。
 しじゅう戦いがおこりました。けれど玄王《げんおう》の部下達も、玄王が人質《ひとじち》になっているので、思いきって攻め寄せることもできませんでした。
 そのことを知っていますので、匪賊《ひぞく》達も、玄王をそまつにはあつかいませんでした。玄王のきずはなおりました、けれども、次には病気で寝つきました。それでも匪賊のうちには、だんだん玄王になついてくるものが出てきました。金銀廟《きんぎんびょう》で玄王の側についてる者たちは、今ではもう玄王の味方でした。
 そこへ、チヨ子が来たのです。玄王は力がつきました。そのうえ、どんな病気にもきくという薬を、太郎がすぐに飲ませておきました。まもなくじょうぶになるに違いありません。
 キシさんは、おどりあがって喜びました。
 朝早く、キシさん
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