動きだして……。
 太郎は目をみはりました。すると、それはやはり、赤土の猫でした。彼は頭を振りました。無理に言いました。
「明日、明るい時でなくっちゃ、わからないや」
「よろしい、明日、します」
 二人は約束しました。太郎はびくびくした気持ちであくる日を待ちました。
 ――あんな人だから、何か魔法でも知ってるのかもしれない。いや、赤土の猫が動く、そんなばかなことがあるものか。でもさっき、少し動いたような気もした……。
 太郎はいろいろ考えあぐみました。キシさんの禿《は》げた赤い頭が、大きく大きくなっていくようなのを、何度か夢に見ました。

 あくる朝、太郎はキシさんと一緒に、庭の奥にやって行きました。松林の中は、すがすがしく、朝日の光が差していました。
 ところが、まあ……赤土の猫は、むざんにも、何度かに踏みにじられて、ぺしゃんこなひとかたまりの泥となり、金貨と銀貨とが、その中で光ってるだけでした。
 キシさんは、呆然《ぼうぜん》とそれを眺《なが》めました。そして、よろよろと松の木にもたれかかり、今にも泣き出しそうでした。
 太郎もぼんやりたたずんでいました。
 そこへ、チヨ子がチロをあやしながら、やって来ました。キシさんは両手を差し出しました。
「おう、お嬢さん、いけないことある。私悲しい」
「どうしたの」
「これ、これ、この猫……」
 キシさんは、踏みつぶされてる赤土の猫を指し示しました。
「それが、どうしたの」
「これ、わたくし作って、金銀廟《きんぎんびょう》にかけて、占《うらな》いました……」
「まあ、これがそうなの?」
 チヨ子は、じっとキシさんの顔を見ておりましたが、ふいに、わっと泣きだして、キシさんの胸にすがりつきました。
「おじさん、ごめんなさい。ああ、あたしどうしよう……おじさん……。あたしね。さっき、チロをあやして遊んでいるとき、それにつまずいて、それから、踏みつけてみると、赤土でしょう、しゃくにさわったから、踏みつぶしてやったの……。なんにも知らなかったのよ。ごめんなさい。ねえ、ごめんなさい」
「それでは、あなた、踏みつぶしたですか。この猫、ほんとに、あなた、踏みつぶしたですか……。おう、いけない。そんなこといけない。金銀廟の猫……」
「だって、あたし、なんにも知らなかったの。ああ、どうしよう」
 キシさんはそこにしゃがみこみ、チヨ子はその膝にとりすがり、そして二人とも泣いています。
 太郎には、さっぱりわけがわかりませんでした。赤土の猫じゃないか……それを。
「金銀廟の猫って、なんですか」
 キシさんは、初めて太郎に気がついたかのように、びっくりしたようすで太郎を眺め、それから深くため息をついて、そして話してきかせました。

 満州《まんしゅう》に近い蒙古《もうこ》の山奥に、玄王《げんおう》という偉い人がいました。その地方を平和に治めて、立派な国をうち建てようと思っていました。その玄王《げんおう》に、ひとりの小さなむすめがありました。玄王は、まずむすめによい教育を受けさせたいと思って、かねて知りあいの日本人で、大連《だいれん》に大きな貿易店をひらいてる人に、むすめを頼み、李伯将軍《りはくしょうぐん》といわれる強い人をつけてやりました。その日本人の世話で、玄王のむすめと李伯将軍とは、東京で勉強することになりました。
 それから二年たって、玄王のところへ、非常に強い匪賊《ひぞく》が襲《おそ》ってきました。激しい戦がありました。玄王は打ち負けたらしい……というだけで、なにしろ蒙古《もうこ》の山奥のことですから、はっきりしたことはわかりません。がとにかく、そういう知らせが、九州の北海岸の別荘に来ていた日本の貿易商のところに、長くたってからとどきました。そして東京から、玄王のむすめと李伯将軍とは呼びむかえられました。けれど、玄王はどうなったかさっぱりわかりませんし、匪賊がばっこしているという蒙古へ帰られるかどうかも、わかりませんでした。
 その玄王のむすめというのが、チヨ子で、李伯将軍というのが、キシさんで、大連の貿易商は、この家の主人の松本さんです。
「そして、金銀廟《きんぎんびょう》の猫というのは?」
と、太郎はたずねました。
「おう、金銀廟の猫!」
と、キシさんは叫びました。
 玄王の城の中に、金銀廟という宮《みや》がありまして、白い塔が建っていて、そこには、金目銀目《きんめぎんめ》の猫がまつって[#「まつって」は底本では「まって」]あるのです。それが、城の護《まも》り神です。何か願いごとがある時には、その猫に祈ればきっとかなうと、言い伝えてあります。
「私、その猫に、一心《いっしん》に祈った。そして、金目銀目《きんめぎんめ》の猫、見つかった。それで、私、なお祈った。無事に蒙古《もうこ》へ帰られるかどうか、赤土で猫を作って、占《うらな》いした。おう、それを、お嬢さん悪い、踏みつぶしてしまった。もう望みない。だめです」
 キシさんがうなだれると、チヨ子はまた泣きだしました。
 太郎は、どう言ってなぐさめてよいかわかりませんでした。そんなことは、迷信《めいしん》だと言っても、聞きいれられそうにありません。そして、そんな迷信にとらわれてるキシさんが、こっけいでもあるし、泣いてるチヨ子が、かわいそうでもあるし、また二人の身の上が気の毒でもあるし、なんだか胸の中がむずむずしてきました。
「ばかだなあ、きみたちは、泣いてばかりいて……」
と、太郎は言いました。
「チロは雪の中から出てきたんだよ。金銀廟《きんぎんびょう》から、とんで来たのかもしれない。そうだよ、きっと……だから、チロを連れて、蒙古に行こうよ。ぼくも行ってやろう。みんなで行こうよ。匪賊《ひぞく》なんか、退治《たいじ》しちまやいいんだろう。だいじょうぶだ。みんなで行こうよ」
 キシさんと、チヨ子とは、チロを抱いてつっ立っている太郎を、びっくりして見あげました。
「赤土の猫なんか、だめだよ。チロは生きてる猫で、金目銀目だ。これを連れて行こう。ぼくも行ってやるよ。みんなで蒙古に行こう」
 キシさんとチヨ子とは、目を輝やかして、太郎の手を握りしめました。

      手品使《てじなつか》いの少年

 太郎は、チロといっしょに、蒙古《もうこ》まで行ってみようとほんとに決心しました。
 そのことを聞くと、松本さん夫婦は、心配しました。けれど、太郎のおじいさんはかえって太郎の勇気をほめ、立派なことをしてくるようにと元気づけ、なお薬を一缶《ひとかん》くれました。神主をしているおじいさんの家に、昔から伝わってる薬で、どんな病気にも、きずにも、疲れにもきく薬だそうです。
 松本さん夫婦、チヨ子とキシさん、太郎とチロ、それだけの人数でした。太郎は立派な服を作ってもらいました。
 門司《もじ》に行き、それから船で、大連《だいれん》へ行くのです。
 船は正午《しょうご》に門司を出ました。風のない春の日で、海はおだやかでした。船はすべるように進みました。青い山々がしだいに遠ざかるのを見送って、太郎はちょっとさびしくなりましたが、蒙古のこと、玄王《げんおう》のこと、金銀廟《きんぎんびょう》のことなど、いろいろ想像しますと、身うちに元気が満ち満ちてきました。
 沖《おき》に出ると、船は少し揺れてきましたが、太郎は元気でした。松本さんが船長と懇意《こんい》なので、船の中をあちこち見せてもらいました。
 そのあくる日の夕方、太郎はもうたいくつして、デッキに上がって暮れかけた海原をながめていました。冷たい風が吹いて、デッキには誰もいませんでした。ただ……。
 太郎は気がついて、目を見張りました。向こうに、みすぼらしいみなりの十五―六歳の少年が、ぴかぴか光る輪をいくつも持って、それを投げたり受けとめたりして、ひとりで遊んでいました。いや、遊んでるのではありません。一生懸命になって、なにか練習してるのです。輪を一つ受けそこなって、とり落とすと、自分で額《ひたい》をたたいて、歯ぎしりをしています……。
 太郎はその方にやって行きました。
「何をしているの?」と、太郎はたずねました。
 少年は悲しそうな目付きで答えました。
「練習してるんだよ」
「なんの練習だい」
「輪投げだよ」
「そして、何になるの」
「ぼくの商売だよ。手品《てじな》をつかうのさ」
「ほう、きみは手品使いかい」
「うん。だけど、まだうまくいかないんだ」
 少年はいくつもの輪をがちゃがちゃいわせながら、そこの手すりによりかかって、海をながめました。それから、ふいにたずねました。
「きみは満州《まんしゅう》に初めて行くのかい」
「うん」
「なにしに行くんだい」
 太郎は黙っていました。
「行ったっておもしろいことはないよ。ぼくは小さい時、おじさんに連れられてきて、ほうぼうをまわったが、つまらなかった。いやになって、またちょっと、日本に戻ったけれど、日本でも、あまりおもしろいことはなかった。それに、おじさんが病気をして、手足がよくきかなくなって、手品《てじな》がうまくつかえないんだ。それで、また満州《まんしゅう》に行くところだよ」
「そして、これから、何をするつもりだい」
「やっぱり、手品使いさ。ああ、ぼくが早くじょうずになるといいんだがなあ」
「毎日、練習をするのかい」
「そうだよ」
 そして彼は、なにか急に思い出したらしく、駆け出して行こうとしました。
「ねえきみ」と、太郎は後から呼びかけました。
「大連《だいれん》に行ったら、ぼくんとこに遊びにこないか」
「ああ行くよ、行くよ」
 そそっかしい少年で、それきり向こうに駆けて行きました。太郎はしばらく待ってみましたが、彼はもう出てきませんでした。太郎は船室に戻っていきました。名前もわからず、ところもわかりませんでしたが、その少年のことを、なつかしく考えました。
 あくる日、船は大連につきました。太郎は手品使いの少年を探しましたが、見つかりませんでした。

 松本さんの店は、大連《だいれん》の賑《にぎ》やかな所にありましたが、別に、住居《すまい》が山手の方の静かな所にありました。一同は、そちらに落ち着きました。
 ところが、大連でも、蒙古《もうこ》の玄王《げんおう》のことは、よくわかりませんでした。興安嶺《こうあんれい》の奥の山の中で、汽車も自動車も通わず、道もはっきりしないし、いく十日かかって行けるかわからないところです。松本さんとキシさんとは、いろんな方面について、はっきりした事情をしらべにかかりました。
 チヨ子は、家の中でチロと遊んでばかりいて、少しも外に出ませんでした。それで、太郎はひとりでよく出かけました。
 大連には、いろいろな国の人が多く、いろいろ立派な家が並んでるので、太郎には珍しくおもしろく思われました。
 ある日も太郎は、ひとりでぶらぶら歩いていました。すると、港近くの広場におおぜい人だかりがしているので、行ってみました。
 広場のまん中にござ[#「ござ」に傍点]をしいて、三角の帽子をかぶり、汚い服をつけた少年が手品《てじな》をつかって見せていました。
「おや、あれは……」
 太郎はつぶやいて、なおよく見ますと、確かに船の中で知りあった少年です。
「だいぶ練習したらしいな。うまくなってるよ」
 太郎はひとりごとを言って、人の後から見ていました。
 少年は、いつかの輪投げの芸を見せていました。今日は、五色にぬった輪を五つ持ち出して、高く宙に投げあげては受けとめ、両手でくるくる使い分けをして見せました。それがすむと、長い竹の先で、皿まわしをして見せました。次には一枚の銀貨を、からだのあちこちに隠したり、あちこちから出したりして見せました。その合間には、しゃちほこ立ちをしたり、とんぼ返りをしたりしました。
 だけど、群衆はただぼんやり見てるきりで、喝采《かっさい》する者もなく、お金を放ってやる者もあまりありませんでした。少年は悲しそうでした。
 次に少年は、ひと抱えほどある大きな毬《まり》を取り出し、玉乗りの芸を始めました。
 毬の上に乗って、足でそれ
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