玉は、テーブルから落ちてころがり、チロも跳《と》び下《お》りてその玉にじゃれ始めました。
 男はひどくうれしがって、ほかのガラス玉やゴム毬などを、いくつも転がしました。
 チロはあっちこっち駆けまわっています。
 女の子は、やはりじっと座ったまま、チロを見ていました。その長椅子の前に、毛皮のついた小さなスリッパがぬぎ捨ててありました。それに、チロがとびついてじゃれかかりました。
「こら、お嬢さんのスリッパを、なんだ」
 男はそう叫んで、追っかけました。チロは逃げました。男はなお、追っかけました。四つばいになって、テーブルの下をくぐったり、椅子《いす》の下に頭をつっ込んだりしましたが、チロのほうがすばしこくて、つかまりません。男はいきりたってきて、ぱっととびつこうとしますと、それがちょうど、小さなテーブルの下で、つまずいて転び、テーブルはひっくりかえり、上にのってた花瓶《かびん》が、大きな音をたててこわれました。
 とび起きた男は、ものすごい顔をしていました。チロはもうスリッパも打ち捨てて、部屋のすみっこにちぢこまっていましたが、男はその方をにらみつけて、獣《けもの》がほえるような声をたて、両の挙《こぶし》を握りしめ、ぶるぶる震えて、今にもとびかかりそうです。
 はっとして、太郎はチロの前に立ちふさがりました。じっとしていた女の子も、とんで来ました。
 男の顔はしだいにゆるんできました。それから、彼は、がっくりと椅子《いす》に腰《こし》をおろしました。
「ああ、私悪い、私悪い。チロ悪くない。私悪い」
 そして彼は、しょんぼりした目つきをして、何度も頭を下げました。
 女の子がにっこり笑って、太郎の方を見ました。太郎も笑って見せました。二人はチロをかばうつもりで、一緒にくっついて立っていたのです。そしてなんだか、急に親しい友達になったような気がしました。
「おじさんの、悪い癖《くせ》よ、またかんしゃくをおこして……」と、女の子が言いました。
 男は何度もうなずきました。そしてチロの方を優しい目で見やって、きまり悪そうに微笑《ほほえ》みました。

 太郎は、支那《しな》服の大きな男と、洋服の少女と、大変仲よくなりました。
 ただ、その二人がどういう身分の人か、さっぱりわかりませんでした。松本さんの奥さんにきいても、よく教えてもらえませんでした。ふたりとも中国人だが、日本名前で、男の方はキシさん、少女のほうはチヨ子と、言われていました。
 そのうちにお話してあげます、と、奥さんはそう言うきりで、意味ありげに、微笑《ほほえ》むのでした。
 二人とも、あまり外に出ませんでした。それを、太郎はよく誘い出しました。
 広い松林《まつばやし》が、庭にとりこんでありまして、そこで気持ちよく遊べました。チロも一緒に遊びました。三人ともチロを大変かわいがりました。
 それにまた、太郎はキシさんから、馬に乗ることを教わりました。厩《うまや》に馬が二|頭《とう》いまして、キシさんはその一頭を引き出しては、いろんなことを教えてくれました。何でも知っていました。えらい人のようでした。
 ところが、ある日の夕方、松の梢《こずえ》に小鳥の巣を探しながら太郎が歩きまわっていますと、向こうの、椿《つばき》の茂みの陰から、彼を呼ぶものがあります。行ってみると、キシさんでした。
「太郎さん、これ、よくできた、ね」
 どこから取ってきたのか、ねばねばした赤土で、大きな猫をこしらえてるのでした。手を泥だらけにして、にこにこ笑っていました。金貨と銀貨とが一枚ずつ、両方の目に入れてあります。
「金の目……銀の目……ね、よくできた」
 そして彼は、さも大事らしく、声をひそめて言いました。
「あなたとチロのおかげで、お嬢さん元気になった。私うれしい。これから、だんだん、願いごとかなう」
「願いごとって、なあに?」
と、太郎はたずねました。
「それ、大事なこと……まあ、見ていてください。この猫、生かしてみせます」
 そして彼は、赤土の大きな猫の前に屈んで、両手を胸に握り合わして、何か口の中で唱えました。しばらくすると、急に立ち上がって、両手を頭の上にさし上げ、それからまた屈んで、頭を垂れ、両手を組み、そんなことを何度もくり返し、そしてじっと猫の方を見つめました。
「それ、生きた、動いた。ね、動いた」
 太郎は、ばかばかしくなりました。赤土の猫が生きて動く……そんなばかなことがあるものですか。
「動きなんかしないよ」と、太郎は言いました。
「よろしい。今度は動く」
 キシさんはまた、前のようなことをくり返しました。禿《は》げた頭が赤く、顔も赤くなって、一生懸命にやっています。もう、うす暗くなりかけていて、松林の中はしーんとしています。じっと見ていると、赤土の猫が……じりじり、前のほうに
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