るのでもなさそうだ。わたしは口籠った。
「乗りたいんですけれど……。」
「そんなら、なにも、遠慮することはないでしょう。」
「でも、もう日がないんですもの。」
小野田さんは変な顔をした。
「実は、近いうちに、ここを引き上げることになっています。」
「みなさんで……。」
「ええ。東京に帰ります。」
小野田さんは眼をぱちりとさして、黙りこみ、やがて思い出したように、ブラシでまた馬を洗い始めた。
「そうですか。そんなら、明日にでもゆっくり伺いましょう。」
予期しない結果になった。わたしの初めの心づもりはもう崩れてしまっていた。どうでもよいと思った。わたしはすぐに辞し去った。
翌日の午後二時頃、小野田さんはやって来た、馬には乗らず、黒い背広服に派手な博多織のネクタイをしめ、牛乳の一升瓶を手にさげていた。いつも前回に空瓶を持って帰り、牛乳をつめて届けてくれることになってるのである。
小野田さんが来る前、午前中、ちょっと変なことがあった。お姉さまがまた、小野田さんの来かたが遅いのを気になさってる御様子なので、わたしは、遅くなってもきっといらっしゃると断言して、もし違ったら大雷を鳴らしてみせると言った。わたしは前日に小野田さんのところへ行ったことを黙っていたのである。別に隠すつもりはなかったけれど、すっかり思惑ちがいになったことが、自分ながら惨めだったのだ。
お姉さまはじっとわたしの顔を見ていらしたが、ふいに、雷が鳴るまでここから発つのはやめたいと、子供のようなことをお言いなさる。この頃ちっとも雷が鳴らなかった。もし雷が鳴ったら、秋子さん、庭の木に落してね、と真面目にお言いなさる。雷が落ちた跡には穴があいて、穴の底に美しい珠が残っている、とそこまでは昔噺だが、その珠を見つければわたくしの病気も直るけれど、珠を見つけなければこの病気はとても直らぬ、などと、それが冗談らしくもないのである。
それからどういう話の続きか、わたしが席を立ってる間に、お母さまとお姉さまとは、小野田さんの馬はもと軍馬だったかどうかと、つまらぬことを長々と話しあっていらした。お母さまは、軍馬ではないだろうと仰言る。お姉さまは、軍馬だったろうと仰言る。明け方、あの馬が誰も乗せないで独りで、どこまでもどこまでも走ってゆくのが見えた。森をぬけ、谷を越え、山を登って、走ってゆくのがいつまでも見えた。あん
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