たかつかないのか、向うをむいて通りすぎてしまった。村上も黙っていたそうである。
「本当なのかい。」と松井は眼を輝かした。
「嘘を云ってどうするんだい。」
二人はじっと相手の眼を見入った。
「あの婆がいけないんだよ。」
「そうだ。」と松井も応じた。
「もう余りあの家に行くのは止そうよ。」
「ああ少しひかえようね。」
然し二人はやはりよくその家に出かけて行った。
彼等はある一種盲目な力に引かされたのである。そしてその家には、彼等にとってはある淋しい心安さがあった。
丁度おたか[#「たか」に傍点]が居なくなって二週間ばかり過ぎた時、二人はその家に林を見出して全く意外の感に打たれた。
林は二人を見て一寸頭を下げた。村上は澄まして向うに行ってしまった。然しその時松井は、わけもなくほっと軽やかな心地を感じて、ずっと林の前に歩み寄った。
「大分暫くでしたね。」と松井は云った。その声は妙に喉の奥でかすれた。
「ええ。丁度暫く病気をやったものですから。まだ薬を飲んでいますけれど、もう殆んど宜しいんです。」
「それはいけませんでしたね。」
そのまま黙って松井は林の前につっ立っていた。林は横を向いていた。ふと気が附くと松井は吃驚して村上の処へ行った。そして台があいた時二人で球を突いた。
その晩他の客が帰ると一緒に林も早く帰っていった。
村上と松井とは遅くまで球を突いた。訳の分らぬ感情が彼等を引きとめたのである。何か平衡を失したものが彼等の心の中に在った。おたか[#「たか」に傍点]の後に来た眼の細い白粉をつけた女がゲームを取った。
二人が其処を出たのは十二時近くであった。
風のない静かな晩だった。軒燈のまわりに静かな気が渦を巻いていた。凡てが今眠りにつこうとしている。そして物影がじっと沈んでいる。
「林は病気だって云うのかい。」と村上は尋ねた。
「そうだ。然し君、林は僕達よりずっと豪い人間のような気がするね。」
「いやにまた林が好きになったもんだね。」
「そうでもないがね。……然し君は一体ひどくなげやりな空想家だね。」
「そりゃあ君ほどの理想家じゃないよ。」
二人は黙々と歩いた。彼等の心にはそれぞれそれとも云えぬ空虚な傷があった。其処から次第に対象の分らぬ頼り無い憤懣の情が起って来た。
「此度はどうしてこう妙な気持ちになったんだろうね。」と松井は云った。
「女が豪いからさ。」
「君は一体おたか[#「たか」に傍点]をどう思ってたんだい。」
「どうってそうきまった感情なんかあるものかね。ただおたか[#「たか」に傍点]が居たんでより面白く球が突けたまでさ。」
「然しまだ妙な感情がずっと続くような気がするよ。僕は今は林が好きだ。」
「僕は一層嫌いだ。」
彼等は黙って十歩ばかりした。
「僕はずっとこの事のはじめから、」と松井は云った、「何だか神に離れていたというような気がする。僕の心は卑しいものに浸っていたような気がする。」
「そりゃあ君、女を失ったからだよ。」と村上は澄まして云った。
「そうかも知れない。」
然し松井は眼の奥に熱い涙が湧いてくるような気がした。その時村上は不意に、「おーう、」と通りのずっと向うまで響く大きい声を立てた。松井は喫驚して立ち留った。
「何だ!」村上の方から云った。
二人はそのまま黙ってまた歩き出した。空も地も凡てが深い夜の中に在った。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「新小説」
1916(大正5)年2月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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