いいものですわね。」
其処に上さんが茶を持って出て来た。
「おや林さんですか。誰かと思ったら。……先日の晩は大変でしたでしょう。」
「ええ少し……。」と云って林はにやにや笑っていた。
上さんは林の顔を覗き込むようにして囁くようにこう云った。
「大丈夫ですか。」
「ええ。」と林は首肯いた。
それから林は普通の声で、上さんに西洋料理を二三品頼んだ。
「実は腹が空いたのでぶらりと出かけたんですが、こちらについ先に来てしまったんです。いえなに……、」と彼は時計を仰ぎ見た。それは九時を過ぎていた。「十時頃でいいんですよ。まだ大分雨が降っていますから。」
松井は林をじっと見た。そして支那人かも知れないと云った村上の言葉が可笑しくなった。然し林の妙にだだっ広い額を見ているとわけもなく腹立たしくなってきた。それでも彼は終りに綺麗に球を突き切ってしまった。
「此度は林さんといらっしゃいよ。……林さん松井さんとお一つどうか。」とおたか[#「たか」に傍点]が云った。
「さあ、」と云い乍ら松井は突棒《キュー》を捨てて椅子に腰を下した。
けれども林は立って来て球を並べながら云った。
「一つお願いしましょう。」
松井も仕方なしに立ち上った。
おたか[#「たか」に傍点]は火鉢に火を入れて、それを球台の下に置いた。それからゲーム台の処に坐って、じっと林を見た。彼女の眼からある微笑みが出て、それが林の顔を笑ました。
松井は林がやって来てから急に一種の屈辱を感じた。皆が林と影でそっと意を通じていること、林が主人顔に振舞っていること、それが松井の鋭い神経に触れたのである。そして突棒を取って林に向いながら彼は強い憎悪を身内に感じた。
松井はなるべく敵に譲る後球《あとだま》が悪くなるようにした。自分で万一を僥倖しないで、敵に数を取らせない工夫をした。そして第一回は美事に勝った。第二回も勝利を得た。第三回にも同じ方法を講じた。然し林は松井の残した悪球を平気で突いた。顔の筋肉一つ動かさなかった。おたか[#「たか」に傍点]も澄ましていた。で松井は苛ら苛らして来た。やってることが林やおたか[#「たか」に傍点]に分らない筈はないと思った。彼は興奮した眼を突棒の先に注いだ。そしてゲームを突き切った時、突棒を捨てた。
「今日は大変当りがお悪いですね。」とおたか[#「たか」に傍点]が林に云った。
「ええ駄目です。」と林は平気でいた。
松井はすぐに帰る仕度をした。
「まだお宜しいじゃありませんか。」
「いや少し急ぐから。」
松井が表に出ようとした時、おたか[#「たか」に傍点]が其処に駈けて来た。
「またあしたどうぞ。」と囁くように云って彼女はじっと松井の眼の中を覗いた。
外にはまだ雨が降っていた。軒影や軒燈の光りがしっとりと濡れていた。松井は急に肌寒い思いをしながら、傘の下に身を小さくして歩いた。
彼の心は興奮したまま佗びしい色に包まれた。凡てのことが何かの凶兆を示すように思えて来た。そして彼は泥濘の上に映った足下の灯を見て歩きながら、おたか[#「たか」に傍点]の顔を思い浮べた。今日初めて気が附いたあの肉感的な頬の魅力が眼の前にちらついた。然しそれは、苛ら苛らした興奮や、一種の敵意や、漠然とした佗びしさの被《ベール》を通して見た情慾であった。
彼は顔の筋肉を引きしめながら、眼を上げて雨中の街路をすかし見た。
四
松井の下宿は静かな裏通りにあった。彼の室のすぐ前には可なりの庭があった。彼はよく机に凭れながら更けてゆく秋を眺めた。樹の梢が高く空に聳えていた。夜には星が淋しく美しく輝いた。
彼はやはりよく球突に通った。多くは村上と二人で、稀には自分一人で。然しおたか[#「たか」に傍点]の周囲にはそれきり何の変りもなかった。ずるずると引きずられてゆくような現状が続いた。
けれどある日おたか[#「たか」に傍点]は球突場に姿を見せなかった。そしてそのまま五日過ぎ十日過ぎるようになった。と前後して林の姿も見えなくなってしまった。
松井と村上とは余りおたか[#「たか」に傍点]のことについて話し合わなかった。彼等はその話を避けるようになった。ある気まずい感情があって、それがお互に心の底を隠すようにさした。
ある晩、松井が自分の室の障子をあけて、ぼんやり空の星と庭の木立とを見ていた時、そしてとりとめもなくおたか[#「たか」に傍点]とその周囲とのことを腹立たしく思い起していた時、村上が急いでやって来た。
「おいおたか[#「たか」に傍点]に逢ったよ。」と村上は眼を丸くしていた。彼が友の家を訪ねて、帰りにぶらりぶらり広小路を歩いて来ると、向うからおたか[#「たか」に傍点]がやって来るのに出逢った。お召の着物と羽織を着てキルク裏の草履をはいていた。村上に気がつい
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