係があった或る女とそれとなく別れるため二三日の旅をするつもりの金だろうと松井は思った。兎に角彼は少し纒まった金が入用になって、故郷広島のさる叔父に内々無心をしたのであった。暫く何の返事もなかった。彼は落ち付かない日を送った。ある晩ぶらぶら散歩していると薄暗い通りに占いの看板を見出した。変な気になって彼は遂にその晩、怪しい老人から吉の占いを得て帰った。翌朝叔父から金が届いたとのことである。
「占いをなすったことがあるんですか。」と林は初めて口を開いた。
「いや、つまらない事なんです。」と村上は答えた。
「あれで中々面白いものでしょうね。」
「さあどうですか。案外つまらないものかも知れませんよ。」
「そうですかねえ。」
 それっきり一寸皆黙ってしまった。
「おそばももう今晩はお流れだし、」とおたか[#「たか」に傍点]が沈黙を破った。「松井さん、では一ゲームいらっしゃい。」
「もう今日は黙目だよ[#「黙目だよ」はママ]。」
「意気地なしだわねえ。林さん一つお願いしましょうか。」
 林はただ微笑んでみせた。
 おたか[#「たか」に傍点]はもう突棒《キュー》を手にして、媚ある眼でじっと見やった。で林はそのまま立ち上った。
 林は平素よりいくらか当りが悪いようだった。
「大変優勢だね。」と村上はおたか[#「たか」に傍点]に声をかけた。
「ええ今晩は馬鹿にいいのよ。」こう云って彼女は怪しい笑みを洩らした。
 黙ってゲームを見ている松井の心にある佗びしい思いが湧いた。何ということもなく只捉え難い空虚の感である。瓦斯の光りが妙に淋しい。球の色艶が妙に儚い。
 彼は遠い物音をでもきくような気で球の音をきいていた。暫くして漸く心をきめた。
「おいもう帰ろうよ。」
「え!」と村上は松井の顔を覗き込んだ。
「僕は先に失敬しよう。」と松井は云い直した。
「いや僕ももう帰るよ。」
「おやもうお帰り?」おたか[#「たか」に傍点]が親しい調子で云った。「今日は大変お早いんですね。」
 松井はじろりと林を見て、それからつと外に出た。村上もすぐ後に続いた。
 大地は心地よく湿っていた。空は綺麗に晴れて星が輝いていた。清い新鮮《フレッシュ》な気が夜を罩めて、街路はひっそりと静まり返っている。夜更けの瓦斯の光りには、何処にも宵の雑沓の思い出がなかった。
「いい晩だねえ。」
「ああ。」
 暫く無言で歩いていた
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